旅するマラカス

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【SF短編小説】環(わ)

【概要】少女二人の終末紀行。



【本文】


そうして人類は永遠の眠りについた。

そんな結末は許さない。

永遠なんてあり得ない。

夜の次には朝が来る


煙草の焦げ跡の散るアスファルトの上に紙飛行機が落ちていた。古いような、古く見せかけた新しいもののような、セピア色のその紙飛行機を広げると、中にはピンク色の文字が散りばめられていた。ピンク色からはむっと鼻につく女のにおいがした。





「クソ陳腐じゃん」

広げてしわくちゃになった紙飛行機の、ピンク色のポエムを踏みつけながらヒバリが言った。

「夜の次には朝が来る、だってさ」

私は足元に散らばる瓦礫の破片を蹴飛ばした。やけに生々しい満月の光がゴーストタウンと化した明かりの灯らない繁華街跡を青白く濡らしている。人間どもよ、ネオンの群れはもはや絶滅した、ようやく我の時代が舞い戻ってきたのだ。雲の合間でぬらぬら揺れながら私たちにそんな言葉を投げかけているかのような月が忌まわしくて、煮えたぎる気持ちのまま天に唾を吐き出す。当然のごとく唾は私の頬に落ちてくる。

「ギャッ」

「ちょ、小夜あんたバカすぎじゃん」

「は、バカじゃないから。実験だから。重力が今もなお地球において通常どおり働いているか、の調査なのであります! やべっ私天才じゃね?」

「は?」

私より少し前を歩きながら「重力がなくなるわけないじゃん」と口にしたヒバリの横顔が無垢な美しさに満ちていたから、私はつかの間泣きそうになった。

ねえヒバリ、なんでそんな無邪気なこと平気で言えるわけ?重力がなくなったっておかしくないじゃん。

「宇宙のブラックホールを作り出すなんとか光線とかさ、なんとか力の影響で、あの太陽すらどっかに消えちゃったんだよ」


追いすがるように「ねえ」と言った私のことを振り返ってヒバリが睨みを利かせる。チッという重い舌打ちがピンク色の口紅をしっかりと塗った唇から放たれた。

「バッカじゃないの。辛気臭い顔見てるとぶん殴りたくなる。いちいち言うなよ、そういうことをさあ」

「ヒバリこそいちいちイラつかないでくれる、なに、生理?」

「あ?」

「あー」

「あはは」

ヒバリは弾けるように笑うと後ろに向かってスキップし、私の隣並ぶと再び歩き出した。

闇の中、ギャルブランドの黒い帽子を被り直してヒバリが鼻歌を歌う。遮るべき日差しはもはやないのに、なんて言うのはナンセンスだ。

ワン、ツー、ステップ。おしゃれのためだけ、実用性なんていらない、女の子二人、おそろいで塗った真珠色のネイルをかざし合って軽やかに進むんだ。非常食や水やキャンプ用品を詰め込んだごついリュックの重みなんて忘れて、どこまでも、どこまでも。


赤い支柱に、今までありがとう、くたばれ、輪廻、さまざまな言葉が殴り書きされている歌舞伎町一番街のアーチをくぐり抜けたとき、ヒバリがふいに私の手を固く握りしめて急に立ち止まった。

「なあに」

ヒバリの背中に手を伸ばし、努めて優しく訊いてあげる。あげる、なんて思考、私って嫌な女だ。だけどそんな風に思わないとやってられないんだ。やってられないんだよ、ヒバリ。


「ねえ小夜。大輝は無事だよね。花邑セクト駅に行ったら大輝に会えるんだよね」

「うん、ヒバリ、きっと会えるよ」

私は自分でも驚くほど滑らかな動作でリュックサックの持ち手を肩から外した。岩のようなリュックサックをどすんと地面に下ろすと、ドラマみたいにくずおれたヒバリに覆い被さって、黒いところのない金髪の頭を抱きしめる。長い髪を梳き、無防備な耳を露出させる。ヒバリの耳は肉厚で、温かくて、それが少し気持ち悪い。


立ち止まってじっとしていると、歌舞伎町にわだかまる獣じみた若者たちの気配を生々しく感じる。地球が通常運転を行っていた頃、世界がもうじき終わるなんて誰も夢にも思っていなかったときに、酒に酔っては騒ぎまわっていた歌舞伎町の住民たちは、今は不思議と静かだ。みな疲れきってしまったのかもしれない。私たちが歌舞伎町を訪れる前は眩暈がするような喧噪や悲喜劇がこの街を埋め尽くしていたのかもしれない。今はただ、帰る場所を持たない人々が無言のままストローを刺した酒の缶片手にうずくまり、毒々しい色に染めた髪を浸食する真っ黒なつむじを月の光の下、晒しているだけだけれど。


「終わりが近づくと、人間って黙るんだね」

私に体重を預けたままヒバリが言う。

「きっとみんな、眠たいんだよ」

ヒバリのこめかみに唇を寄せて、私は答える。

だって、太陽が消えて、ずーっと夜が続いてるんだもん。


宇宙における原子と分子と物理科学的なんちゃらエネルギーと惑星の因果律が崩壊する影響でこの地球は三ヶ月後に滅びます。二ヶ月と三週間前、そんな内容の公営全世界放送が街々のモニターに突如映し出された。人々は混乱し、いつか映画で見たようなありきたりな騒動や悲劇が世界中に巻き起こった。ライフラインは首都の最低限のものに限定され、店は善人による有志のそれ以外閉ざされ、一般市民は倫理観を捨て去った連中による身の毛もよだつような犯罪に巻き込まれないようねずみのように息を潜めながら身を寄せ合って生活していた。

故郷の茨城県から京都の大学に進学して寮生活を送っていた私は地球滅亡の混乱によって焼失した寮から逃れ、同じような境遇の学生たちと共に大学のキャンパスで生活を営み始めていた。それからしばらく後、因果律の崩壊により太陽が姿を消して終わらない夜が始まったのと同時に電話とインターネットが繋がらなくなった。大学に留まっていた学生たちの多くは連絡の取れなくなった故郷の家族と会うために大学を去っていったけれど、地球最後の時を家族と過ごそうとは思えなかった私は、学友たちを見送って大学内に留まり続けた。

家族が嫌いなわけではない。茨城県で農業を営む両親は私に親として適切な愛情を注いでくれたし、双子の兄、大輝との仲も良好だった。しかし、私には想像がついてしまっていたのだ。もし私が家族と再会したら、家族は私が「嫁にも行けず、子供も産めず」死ぬことを心底嘆き悲しむだろう。彼らはそういう人種なのだ。そこそこの企業に腰掛けで勤めた後、安定した収入のある男と結婚し、子供をつくり、老後の面倒をみさせる、そういう合理的なプロトタイプが誰にとっても絶対に幸福であると信じて疑わない「善人」。私は嫌だった、自身の幸せを勝手に規定されて不幸者のレッテルを貼られることも、人間という動物の生存上適した人生設計を幸福と思えない自分のことも。


私は時折大学内に住む他の人々と交流しつつ、それ以外の時間はもっぱら大学の図書館で本に埋もれながら日々を過ごした。私は非常に恵まれていた。図書館棟の地下階には非常用の備蓄や水、電気が止まったときのために用意された自家発電システム付きの宿泊施設があった。校内放送用のスピーカーからは、インターネットの代わりに用いられ始めた、鉱石ラジオの仕組みを応用した音声放送によるニュース番組が毎日二回流れてきたので、社会情勢から孤立せずに済んだ。


ある朝、完全無人自動運転化が既になされていた都心の一部の路線を除く全ての交通公共機関が政府の命令により運行を停止したというニュースが図書館に流れた。ボランティアの運転手が乗客を道連れに無理心中を図る事件が多発したからだった。

「人々は乗用車による移動を試みています。しかし首都圏の乗用車は、先日多発した暴走車轢き逃げ事件に抗議する団体によってその多くが破壊されており……

「続いて本日の生存連絡電報です。タナカケイタ、アール三・五・七、『有楽町ホールにてナナミを待つ』……

同姓同名者と間違えることのないよう生年月日と共に告げられる氏名とメッセージを聞き流しながら図書館のソファで読みかけの文庫本を開いたとき、ふいに鉄の扉が開いたので、私は驚いて顔を上げた。

人がいるとは思わなかった、とでも言うように口をぽかりと開けて立っていたのがヒバリだった。


ヒバリは金色の長髪にふんわりとしたシルエットのワンピース、ハイヒールといういでたちだった。多くの人々が服装に構う気力などとうになくなり適当な格好をしている中、気合の入ったファッションに身を包んでいるのが妙におかしくて可愛かった。

重い扉の閉まるバタンという音の裏で生存者連絡はなおも続いていた。ハシモトタカヒロ、エイチ十一・六・十二、ミユ生きてたら生存者連絡をくれ、俺は米原駅におる。ゴトウミサキ、エイチ七・三・六、東京ホテル竜宮ツリー駅前にて待つ。

「ヒツジヤマダイキ、アール四・四・二十、『小夜、無事か、俺は花邑セクト駅にいる』」

はっとスピーカーを見上げた。兄だ、と思った。

「大輝……?」

涙混じりの声にぎょっと振り返った私はそのとき彼女が誰であるか気がついたのだ。



ヒバリとまともに言葉を交わしたことはなかったが、私は幼い頃から彼女のことを快く思っていなかった。ヒバリは夏樹と私との関係に水を差す存在だったからだ。

隣の家に住む幼なじみの夏樹は、初夏の浜辺の柔らかな日差しを思わせる優しい垂れ目が印象的な爽やかな少年だった。小学三年生の夏まで私たちはほとんど毎日夏樹の家の庭で共に遊んでいた。夏樹の家の広い庭ではいつも、丁寧に手入れされた美しい草花が出迎えてくれた。咲き誇る花々の中、花冠を被る私はお姫様で、夏樹は王子様だった。それは夢みたいなひとときだった。しかし私はヒバリの登場によって時折夢から覚まされた。 


ヒバリはごっこ遊びが佳境に入る頃音もなく現れる。海野の瞳の端に映るヒバリが、私も花冠を被ってお姫様になりたい、というじっとりとした視線を私に向けるのを私はことごとく無視した。だってあの子はいらない子なんだもんと心の中で言い訳をしながら。ほら、夏樹のママは夏樹のことは好いているけどあの子のことは嫌ってる。私この前見たんだから、夏樹のママがはぎれのレースと花冠で一人遊びするあの子のお尻をぶってたの。あの子は家の中で隠れてなきゃいけないの。「うちにヒバリなんていない、そうでしょ」って夏樹のママはヒバリに金切り声で叫んでたんだから。けれど、そういうことを思えば思うほど自己嫌悪に苛まれるから、あの子が顔を覗かせるたび私は適当な理由をつけて遊びを切り上げ、自分の家に帰ったのだった。

そしてある日私は見てしまったのだ。隣の家で、洗濯に出してから無くしたと思っていた私の花柄のワンピースを着たヒバリが一人、花冠を作って遊んでいるところを。


ヒバリは私のワンピースを盗んだのだ。ショックだった。怒りと生理的不快感が込み上げてきた。けれど私はヒバリに声をかけることなく塀の下に姿を隠した。あの子はいない子じゃないんだ、という思いが鈍器のように私の頭を殴りつけた。ワンピース姿で花遊びをするヒバリは本当に幸せそうで、咲き誇る花のように美しかった。そしてその日以来、私は夏樹の家に遊びに行くのをやめたのだ。


しかし、図書館で再会した日、私は不思議と穏やかな気持ちでヒバリと会話することができていた。地球滅亡前という非日常の気配がヒバリの絵に描いたような金髪と妙に調和が取れていたからかもしれない。


ヒバリは夏樹の死を私に告げた。

私は備蓄のかびくさいコーヒーを沸かしながら「うん」と言った。

「驚かないの?」

「分からない」

私の体が呟いた。私の心は抜け殻の中みたいにぼんやりしてる。私は夏樹の死にショックを受けているのだろうか。よく分からない。全ての感覚が鈍い。眠りの淵にいるように。夏樹は永遠の眠りについたのだろうか。それとも悪夢から目覚めたのだろうか。

「小夜、大丈夫?」

「あ、ごめん」


それから、コーヒーの湯気を間に挟み、私とヒバリは互いにちょっとした近況報告を行った。

「ねえ、小夜、私大輝のことがずっと好きだったんだ。だけど母親にも嫌われてた私なんかがって思うと色々取り乱しちゃって、大輝から逃げるように京都の大学に進学した。世の中がこんな風になった後、優しい大輝は私にも連絡をくれたけど、うまく返事をすることができなかった。バカだよね、それからすぐ電話もネットも使えなくなって、大輝がどこにいるか分からなくなっちゃった」

そっか、と私は言った。

「だけど今日、大輝の居場所は分かった」

「うん、奇跡だと思ったよ」

「東京の花邑セクト駅に行くの? 列車は今日止まっちゃったけど」

「行くよ。歩いてく。何日かかっても行く」

「そのヒール靴で?」

私がそう訊くと、「好きで履いてるんだもん」とヒバリは笑った。

コーヒーごちそうさま、と言って彼女が立ち上がる。私は椅子に座ったまま突如どぎまぎと暴れ始めた心臓を押さえ込んでヒバリの後ろ姿を見上げた。ワンピースのファスナーの上、広く開いた背中の滑らかな肌色を見つめながらごくりと息を呑む。なあに、とヒバリが言った。レモン色の爪で長い髪をさらりとかき上げて振り返る彼女に、もう行くの、と分かりきったことを訊く。ヒバリは、行くよ、と答えてくすりと笑うと、少し考え込むような仕草を見せ、それから私をまっすぐ見つめ直した。

……小夜も一緒に行く?」

行く、と私は言った。

それから私たちはヒバリの持参した道具を使って爪の色をおそろいにし、京都を発った。




歌舞伎町を抜け、廃線となった西武新宿線を左手に新大久保の街を歩いた。流れる水のように光るオパール色のガラスをヒール靴の足で薄く踏んで「玉砂利」とヒバリが呟く。かつてフレッシュジュース店の看板だった大きな円状のガラスが春の氷のようにぱりぱりと割れる。

「なに? いきなり」

「んー、おしゃれの残骸みたいなガラスをぱりぱり砕く感覚が、玉砂利を踏んだときの感じに似てるなあって」

私は肩を揺すって「雅かよ」と笑ってみせた後、少しだけ息を吸い込み、夜の街らしい密やかさを含んだ声で「京都の玉砂利のこと?」と囁いてあげた。

「修学旅行で行ったっていう……

「そうそう」ヒバリがうっとりと目を伏せて瞬きする。「平安神宮の敷地内で、真っ白な玉砂利に足を取られてこけちゃった私を同じ班の大輝が抱き留めてくれたの。もちろん大輝は単なる親切心で助けてくれたんだろうけど、私は大輝の体温にどきどきしちゃってさ」

「大輝も罪な男だよ」

この旅の間ヒバリに幾度となく聞かされた話に相槌を打つ。可哀想なヒバリ、ほんの一瞬だけ与えられた友愛の感覚をよすがにしてハイヒールによる靴擦れの痛みに耐えている。いや、頬を赤らめて何度もちっぽけな思い出話一つを繰り返すヒバリは自ら進んで履いたハイヒールの痛みを感傷の中に抱き込みながら、自分自身に酔っているのかもしれない。そうだとすればヒバリは幸福だ。ささやかなぬくもりの記憶一つを可能性の糸にして大輝と結ばれる未来を展望している。



事前情報のとおり、ベースキャンプは高田馬場駅に設らえられていた。

街が壊滅状態になり、人々が内紛の火に焼け出される中、簡単な宿泊設備や生存連絡電報の発信装置が用意され、カウンセリングや炊き出しのサービスも提供しているベースキャンプが全国各地に作られていた。私たちはベースキャンプに泊まりながら京都から東京へ旅してきたのだ。

昼も夜も闇に包まれた世界で人々がたどり着きやすくなるよう、全国のベースキャンプには電灯を重ねた光の塔が作られ、煌々とした光を放ち続けていた。暗闇を照らすそれを人々は命の塔と呼び、その場所で喪った大切な存在や自身の行く末に想いを馳せていた。

そして私にとっても、命の塔は特別なものだった。


「小夜」

ベースキャンプで眠りに落ちると、優しく肩を揺すられる。この手を引いて、寝床から命の塔へと夜毎私を誘い出すのは、夏樹の幽霊なのだった。あるいは、私は、そういう夢を見ているのだ。

「同情で出てくんなよ」

「ごめんごめん」

夏樹は困ったように笑い、命の塔の灯りを見上げた。「夜明けみたいだね」

「あは」

私は笑ってみせながら、夏樹の横顔をぼんやり眺めた。癖のついた柔らかな黒髪、優しい目、静かな声を出す薄い唇。

偽物の光だよ、と心の中で夏樹に言う。夜明けの光とはほど遠い、ただの電灯だ。あんただって同じ、所詮は偽物なのだ。私の気持ちに呼応して現れる、夏樹のかたちをした夢幻。けれど私はそれを幽霊と呼んでいたい。今目の前にいるものが確かに夏樹の魂を持っているのだと思い込んでいたい。

「夏樹」

私は幽霊の夏樹の手を掴もうとする。けれど夏樹は幽霊だから、するりと私の手から逃れて「ごめんね」と苦しげに笑う。

「あんたって最低の自己満野郎だよ」

「知ってる」

そっと夏樹が囁く。私は泣く。目を覆っているうちに夏樹は姿を消してしまう。そして私の胸にはいくばくかの喜びとその何倍もの虚無感が残される。


再び目を覚ましたとき、ベースキャンプは暗いなりに昼めいた雰囲気で満ちていて、ヒバリは既にばっちりとメイクを施し終えていた。

「おはよー小夜、起きるの遅いんですけど、てか、ねえ、ベースキャンプに寄るために遠回りしちゃったけどさ、今日の夜には花邑セクト駅に着きそうだね」

「そっか……

良かったね、とヒバリの手を取る。

「花邑セクト駅に向かう、って生存連絡電報も打っておいたし、きっと会えるよ、ヒバリ」

「うん、ありがとう、小夜……

ユウコは乾いた手のひらで私の手を握り締めながら、ありがとう小夜、と何度も繰り返した。


私たちは支度をし、ベースキャンプを出発した。


目指す先は東京駅だ。東京駅から花邑セクト駅までは自動運転の列車に乗って行けばいい。花邑セクト駅にはベースキャンプがあり、ランドマークの観覧車が命の塔として用いられているらしい。


私は、私と小夜が海沿いにある未来都市風の花邑セクト駅で降り、観覧車のネオンを背に大輝と再会するところを想像した。それは今日私たちの経験する出来事のはずなのに、頭の中のイメージは遠い日の幻のように霞がかっていた。


東京駅に着いたとき、音声放送が午後五時を告げた。東京駅は巨大なベースキャンプだった。駅舎そのものが命の塔となり、明るい光を放っている。私たちと同様東京駅にたどり着いたばかりらしい子供が灯りを見上げて「もうクリスマスが来たの」とはしゃぐ声が電飾の淡い影に響いていた。その子供は、母親と思しき女性の丸まった背中に遮られて私たちの視界から姿を消した。

「行こうか」

ヒバリが私の手を取った。私たちは手を繋いだまま東京駅前広場の人だかりを抜け、改札口へと向かった。


「なんか閑散としてるね、意外。もっと人でごった返してるかと思った」

私の言葉に、「まあUA線は山手線より二回りも小さいおもちゃみたいな環状線だからね。今さらそんなもんに乗って移動したい人間なんかそうそういないでしょ」とヒバリが返す。

「鉄オタを除いて?」

「そうだね、ウケる」

「はは」

開きっぱなしになっている改札を通り、ホームに降りる。

私たちはベンチに並んで腰かけると、そのまま黙って互いの体に体重を預け合った。列車が一本、また一本と来ては、少しの人間を乗せて流れていく。確かにおもちゃみたいだ、と私は思った。何もかもがおもちゃみたいだ。ヒバリの背中にある、私の知っているほくろ、私のうなじにあるらしい、ヒバリの知っているほくろ、おそろいのネイル、共に食べた炊き出しのスープの焦げ、ヒバリのお気に入りのピンクのリップ。


やがて私たちは手を繋いだまま立ち上がって列車に乗り、細長い座席に隣り合って座った。無機質な車内アナウンスと共に扉が閉まり、白紙のつり革広告を載せた車体が本物の夜に漕ぎ出していく。人の減った東京の空虚なネオンが窓越しに瞬いては遠ざかっていく。


「次は花邑セクト駅、花邑セクト駅」


観覧車のまばゆい光を映した窓に、ヒバリの姿もまた映っている。ねえヒバリ、あんたは今何を考えているんだろう。通路を挟んで向かい側に広がる窓の淡い像からは表情までは読み取れない。けれどすぐ隣を覗き込む勇気はない。

花邑セクト駅に到着しました、という車内アナウンスが流れ、列車が止まる。列車は二分間停車いたします。私たちは座席から立ち上がった。ヒバリがゆっくりとホームに降りる様子を私は列車に乗ったまま見守っていた。

「小夜」

ヒバリが振り返る。私はヒバリに軽く手を振ってみせる。

「大輝によろしく」

微笑んで囁く。ヒバリの顔がくしゃりと歪み、車窓の灯りを映した瞳が潤む。

「なんでよお」

こうすればいいの、とヒバリは呟き、金髪の根元を引っ張った。

ウィッグネットごとずるりとウィッグが落ちる。


黒髪をくしゃくしゃと手櫛で整えながら、彼女は自身の表情を切り替えていく。

「夏樹雄太郎」

「その名前で呼ばないでってちっちゃいときから言ってるじゃん!」

子供に還ってしまったかのように地団駄を踏んだ幼馴染に、私は「その名前がさ」と笑ってみせた。

「それがダメなら、もう戻れないでしょ」

……小夜」

「夜、『夏樹』としておしゃべりされるのは虚しかった。男の子の夏樹に対する私の気持ちを悟られているようで恥ずかしかった」

ヒバリは、鼻を啜りながら、うん、と言った。

「ごめんね。自己満だよね。自分で、夏樹雄太郎の外面を殺して、ずっとなりたかった女の子のヒバリに生まれ変わろうとしたくせに、やっぱり嫌われるのが怖くてさ」

ねえ小夜、俺は、私は、本当に小夜のことが好きなんだよ。小夜との友情を失いたくないんだ、友情は恋に負けちゃうの?やだよ、一緒に行こうよ、寂しいよ。

彼女が私に手を伸ばす。私は「行けないよ」と呟いた。

「行けないんだよ」

「なんで」 


なんで?よく分からない。私はただ、花邑セクト駅で彼女と共に降りることができないのだ。うまく説明できないけれど、それが全てなのだ。


——小さいとき、あんたが私のワンピースを盗んだから。

一瞬そう言おうとして、やめた。


「夏樹のことが好きだったよ」

呟いた言葉は閉まるドアの狭間に吸い込まれて消えていった。

無人のホームに立ちすくむヒバリは涙で化粧の溶けたひどい顔で私のことを見送っていた。私はドアのガラスに手をつきながら、ヒバリの姿が視界から遠ざかって消失してしまうまで、じっとその様子を眺めていた。さよなら大輝、さよなら夏樹、さよならヒバリ、さよなら世界。

誰もいない車両の中、糸が切れた人形のように縦長の座席の端に腰を下ろす。卵を温めるような格好でリュックサックを抱え、垢じみたにおいのする取手の部分に頭を預ける。


真珠色の爪を噛みながら、列車に揺られて環状線をぐるぐると巡り続けた。地球が滅ぶまであと一週間もある。だけどヒバリ、この列車があと何周もしないうちに世界は終わるかもしれないよ。そしてまた始まるんだ。光より速く、何周も何周も、世界は巡り続けて、いつか夜の環を外れるかもしれない。


は?そんなわけないでしょ。

あるかもしれないじゃん。宇宙のブラックホールを作り出すなんとか光線とかさ、なんとか力の影響で、あの太陽すらどっかに消えちゃったんだよ。

——バッカじゃないの。

低く掠れたヒバリの声を思い出す。真珠色のネイルが歯に溶けて剥がれた。脳裏に蘇るのは、王子様の夏樹ではなく、似合わない少女趣味のワンピースを着たヒバリの姿だ。花冠を被って喜ぶヒバリ。悪態をつきながらぼろぼろになった足をハイヒールで包み、気高く進むヒバリ。ずるい女の顔で私に恋バナを繰り広げるヒバリ。

相反する感情が互いのしっぽを追い合っているような気分だった。終わりたいような始めたいような、愛しいような憎いような、眠りたいような目醒めたいような。

「そうして……

私はクッション地の座席を踏みつけて背伸びをし、白紙の吊り革広告を剥ぎ取ると、ダウンジャケットのポケットを探った。

別れのどさくさでユウコから盗んだピンクのリップを手のひらで転がす。紙飛行機ってどうやって折るんだっけ。


そうして人類は永遠の眠りについた。……”