旅するマラカス

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【創作】醜い青年と異国の男娼の奇妙な交流

拝啓 親愛なるユリヤへ

君に手紙を書くのは初めてですね。僕はヨシヤ。五年前の今ごろ、ガリサ島で君の部屋に泊まり(といっても君の客としてではなく)、ペアゾーネ祭の晩を過ごしたヨシヤ・アカオです。


ユリヤ、お元気ですか。なんて、こんな挨拶をしたところで、この手紙が君に読まれることはないかもしれませんね。君は今や押しも押されぬスターだ。怪しげな被りもので常に素顔を隠した謎の特殊メイクアップアーティストの活躍をテレビで見て君の事務所宛にファンレターを出す人などいくらでもいるでしょう。つまるところ、この手紙を出したのは、全くの自己満足にすぎないのです。僕が容姿だけでなく、心までも醜かったのだなと君は軽蔑するかもしれない。それでも僕は手紙を書くことにしました。


だって君は赤鬼の被りものをしていたんだ。




五年前僕は、この醜い容姿と赤尾という名前から、幼い頃から赤鬼とあだ名されていたんだと卑屈におどけて赤鬼のストラップを君に渡しましたね。あのストラップは中学生の頃、クラスメイトたちが僕をからかうために渡してきた、ボトル飲料のおまけの品だったんだよ。僕はこのストラップが大嫌いで、それでも捨てようとすると奇妙な寂しさが胸に満ちるものだから捨てられずにいたんだ。だから君が存外喜んでストラップをもらってくれたときは、やっと重い荷物を一つ下ろせたような気がして安堵したと同時に罪悪感を抱いたものだ。

ねえユリヤ、君が赤鬼に扮してメディアに取り上げられていることと、赤尾吉矢が赤鬼のストラップを渡したことは、関係があるかもしれませんし、あるいは全くの無関係かもしれません。それでも僕は、テレビで君の姿を目にしたあの瞬間、君とまた話がしたくてたまらなくなったのです。





モーターボートからガリサ島に降り立った夕暮れの瞬間を今でも鮮明に覚えています。

寒気に包まれた二月のガリサ島は高く澄み渡った青空と凍てついた大地がどこまでも広がる静寂に満ちた場所でした。海のきれいなリゾート地として夏の間観光業で大きな利益を上げ、その蓄えで冬は巣ごもりするのがガリサ島の人びとの暮らし方だということを本で読んで知ってはいましたが、人ではないものの気配が冷たい潮風にのって地平線を切り裂いていく光景を実際目の前にするとやはり圧倒されるものですね。ボートを操縦していた漁夫のヤニスさんはなまった英語で「寒いだけでなんにもないつまらないところだろう」というようなことを言っていました。ですがさる事情から心身ともにひどく疲弊していた僕は、むしろその「無」に深い安堵と、神々しさすら感じていたのでした。


それからは君も知ってのとおり、僕たちは手違いによって出会ったのでしたよね。

雑貨屋のヨルゴスじいさんの慌てふためいた顔といったら!僕は、単に平和ぼけした世間知らずな日本人というだけではなく、色っぽい話にはいまいち興味がないたちなので、余計察するのが遅かった。君も、ヨシヤは本当に自分と同い年なのか、とおかしそうに笑いましたよね。君のあどけない笑顔が懐かしく思い出されます。


あの日僕は、ボートから降りた後、ヨルゴスじいさんのジープに乗って宿にチェックインする手はずだったのですけれど、ジープが宿のある中央通りを過ぎ、うみねこ丘陵をのぼり始めてしまったので、内心冷や汗をかきました。


「宿を過ぎてしまったんですけれど」

犯罪にでも巻き込まれたらたまらないと思い、拙いガリサ語で懸命に訴えた僕をヨルゴスじいさんは「まあそういうこともあるさ」と笑い飛ばしました。


「つまり、手配上のミスってやつで。それにお客人、あんただってわざわざ宿を別に取るよりも、ユリヤのところへ泊っちまった方が経済的だよ」

どうせユリヤの世話になるんだからなとヨルゴスじいさんはにやにや笑いました。僕はじいさんの言っている言葉の意味が分からず、ただ目を白黒させていました。

そのうちジープはうみねこ丘陵を越え、崩れかけの煉瓦で縁取られた名前の分からぬ坂をのぼって行きました。ジープがようやく止まったのは、白い石造りの塔のような建物が一軒建つ、小高い丘の上でした。

「ここの三階がユリヤの住み処だ」

じいさんはそう言いました。丘の上で僕はしばし呆然としていました。なにせそこは、君も知っての通り、とても美しい場所だから。


海辺に咲き乱れる白い水仙を近くで見たくて、僕は思わず丘を駆け下りました。あんなに息を切らして走ったのはいつぶりだっただろう、足を下ろすたび、地面に散らばった漆喰の壁の破片やウィスキー・オレンジに染まった煉瓦のかけらが軽やかな音を立てた、夢見心地で僕は海の水面を覗き込みました。海には水仙が逆さに映っていて、ため息が出るほど美しかった。けれど、よく顔を近づけて見つめていると、赤ら顔をした恐ろしげな男の姿が映り込んでいるのに気がついたので、ふいに現実に引き戻されたような気分になって、僕は待ちぼうけを食らわせられているヨルゴスじいさんの元に慌てて戻りました。


じいさんはぷりぷりと怒りながら僕を連れて塔に入り、螺旋階段をのぼり詰めると、その先にある白い扉を乱暴に叩きました。

「ユリヤ、いるんだろ」


そうして君が現れたのです。

こういうことは何千、何万回も言われてうんざりしているかとは思うのですが、初めて君の姿を見たときは面食らいました。何せ君は恐ろしく美しかったから。同性愛者でない僕ですら束の間見惚れてしまうほどに。ユリヤ、君は五年前、僕と同じ二十二歳の男性だったはずで、その年頃のガリサの男性といえばもうすっかり大人の男という風貌をしていてもおかしくないはずなのに、君は少年と青年の境目を揺らいでいるようだった。滑らかな褐色の肌、大粒のエメラルドのような緑の瞳、すっと通った鼻梁、甘い果実のような唇、上等な絹糸を思わせる巻き毛の黒髪。君の美しさを思い出すたび高揚します。しかし少し経つと、冷ややかな気持ちに沈むのです。人間は他人を面の皮一枚で神や化け物と決めつける。


「ああ、例の日本人の客ね。二泊で三百ユーロ、先払い」

眠たげに目をこすりながらガリサ語なまりの英語で告げたユリヤの言葉にひどく驚きました。三百ユーロは日本円で四万円弱です。オフシーズンのガリサ島への渡航費や宿泊費は格安のはずなのに、ぼったくりじゃないかと思った僕は慌てて「高すぎる」と叫びました。

「僕は素泊まりで二泊七十ユーロの宿を予約してたんだ。ほら、控えもある」

「いやあんた、ユリヤを買いに来たんだろう。どっちにしろ三百ユーロはかかるぞ」

「ユリヤ?」

ヨルゴスじいさんの言葉に僕は眉をひそめました。

「さっきから言っている、そのユリヤというのはなんなんですか?」

「なんてこった」じいさんの顔から血の気が引いたとき、君は腹を抱えてげらげら笑っていましたね。それを見たとき僕は、ああ、彼は人間なんだなあと肌で感じたんだよ。

「おいじじい、宿屋のばあさんは今どこにいるんだっけ?」

「お前は生意気な口をきくんじゃないよ。悪いね旦那、この時期にやってる唯一の宿屋のばあさんは今、イタリアの孫に会いに行ってるもんで。いやなにせ、冬のガリサ島なんてところにわざわざ来るのはユリヤの客くらいなもんだから……

「なあ、あんた、なんでこの時期にこんなつまんない島に来たんだよ。ここには本当になんにもないんだぜ」

「大学で地中海の島の文化を学んでいて……とりわけガリサ島の芸術や文学を熱心に研究していたんだ。だから卒業までに一度、ガリサの土を踏んでみたかった」

それまで僕は英語を使っていましたが、このときは慣れないガリサ語を使って話しました。だから本当はもっと拙い言い回しだったのでしょうね。

僕の目をしばらくの間黙っていた君は、やがておもむろに口を開きました。

「あんたさえ良ければ、二泊毎食つき百四十ユーロでうちに泊まらないか? 俺は料理の腕には自信があるんだ。素泊まりでもこの時期ろくな飯屋は開いてねえし、ヨルゴスじいさんの店で売ってる水は苔が浮かんでるぜ。なあ、じいさんも仲介料が減るが、勘弁してくれ」

「まあ、仲介料のことは仕方ないが……それにしてもユリヤ、俺んとこの水に苔が生えてたことなんかないぜ! 二、三回くらいしか」


ヨルゴスじいさんはおどけたように言った後、急に早口のガリサ語で「それにいいのか? 見ろよこの悪人面を。うまいこと言って値切った後お前を襲うつもりかもしれない」と君の目を見て囁きましたね。じいさんは僕には聞き取れまいと思ったのでしょうが、僕は耳が良いので聞き取りは得意なのです。


襲う、という言葉が頭の中で生々しく響きました。そうか、ユリヤは男娼なのか。それにしてもこのじいさんはユリヤのことを気遣う言葉をかけた。

それが君という人間への優しさなのか、はたまた商売道具に対する優しさなのか、ヨルゴスじいさんをよく知らない僕は分からなかったけれど(気に障ってしまったらごめんなさい)、とにかく君の待遇は悪くないのだろう、良かったなあ、と僕は思ったのです。それから君は嬉しいことをヨルゴスじいさんに言ってくれた。


「大丈夫だ、目を見りゃ分かる、俺はプロだぞ。こいつはいいやつだ」

本当に嬉しかった。第一印象で人に「いいやつ」なんて評価されたのは初めてだったから。



「客を取る部屋だからな、臭わなけりゃいいが」

暖炉の火の燃えるこざっぱりとした部屋に僕を招いてくれたとき、君は自嘲の言葉を僕に投げかけましたね。


「なあ、あんたは男娼を見たことがあるか? 大学生だっけ、ずいぶんと純朴そうだが、男に体を売って金を稼いでいる男を前にした感想は?」


僕は首をかしげました。もし僕がユリヤのように美しかったらきっとどこにいたって王様のように堂々と振る舞うだろうに、なぜユリヤは僕みたいに卑屈な目つきをして僕に値踏みされるのを待っているのだろう。君と僕は生まれ育った世界も容姿も違うのに、まるで鏡写しのようなところがある。

そんなことを考えていたものだから、僕は君の皮肉げな言葉に対し「感想か、そうだなあ」なんてぼんやりしながら言ってしまった。

「僕の外見じゃ男娼は逆立ちしてもできないだろうなあと思うから、不思議な気持ちだ」

そう言ってしまってから、僕ははっとして頭を下げました。

「ごめん、もっと、人道的な問題とか色々、ましなことを言うべきだったのに」

しかし、ユリヤ、君は怒り出すどころかむしろ、心の底から嬉しそうな顔をしてのけぞりながら大笑いしたのだ。

「そっか、そんなこと言われたの初めてだ。なあ座れよ」

柔らかな横長のソファの背を叩くと、君はどかりとそのソファに腰を下ろしました。

「なあ、俺はユリヤ。苗字のないユリヤだ。年は二十二。あんたは?」

「僕はヨシヤ。ヨシヤ・アカオ。君と同じ二十二歳だ」

ところで、苗字がないっていうのは?と訊いた僕に、君は「ヨシヤは大学でガリサの文化を勉強してたって言ってたけどさ」と巻き毛を弄りながら言いました。

「そういうのってたぶん、古代の都市文化なんかだろ? タライアス戦記とか、フェニアンの宗教画とか」

「ああ、そうだね。近代文化についても軽くは触れたけど、主に学んだのは古代文化かな。タライアス戦記やダフネス戦記における戦士と鳥の関わりの深さについてだとか、古代神殿があったこのテオ街区から出土された六十四の壺とか」

「それは表の歴史文化ってやつなんだよ。ヨシヤが言った通り、このテオ街区には神殿があった。二つの神殿が。一つは歴史に名前だけ残す大神殿、そしてもう一つは小神殿さ」

滔々とした語り口で君は小神殿の話を語り聞かせてくれましたね。水仙の花咲く海辺の小神殿には「巫女」の一族が住んでおり、街の男たちの体を慰めることを責務としていたこと。彼女たちは「神」の使いとして苗字を天に預け、全ての男の妻たれという教えにしたがっていたため、苗字を持たなかったこと。

「よくできてるよな。冬が厳しいばっかりの乾いた田舎町に娯楽場を作って、力仕事のできる男を誘致したんだ。まあ、大神殿にしたって俺にしたら同じようなもんさ。神の教えってやつは心を慰めるからな」


嘲笑混じりにそう言うと、君は立ち上がって台所へ行き、棚から栓抜きと酒瓶一本、グラスを二つ出し、ソファの前の木のテーブルにどんと音を立てて置きましたね。それから慣れた様子で手際よくコルクの栓を抜いたのです。


「まあ飲もうや、良い旅を祈って!」


乾杯すると、君はすぐにぶどう酒を飲み干し、台所で夕食の支度をし始めました。

何か手伝いを、と言った僕に君は、夕食ぶんの金ももらってるんだから黙ってのんびりしてなと優しく言いましたね。だから僕は濃厚なぶどう酒をゆっくり飲みながら包丁を持つ君の背中や、窓から見える絵画のような海辺の景色を眺めていました。


そこには奇妙な時間が流れていました。静けさが重荷にならず、むしろ心地良い。


ユリヤ、実を言うと僕が閑散とした冬のガリサ島を訪れたのは、大学でガリサ文化を学んでいたからというだけではなかったのです。自身の醜さから起きたある事件によって大学にいづらくなった僕は、好奇の視線と噂からどこまでも遠く離れて、とびきり静かな場所へ逃れたかったのです。



ユリヤ、赤鬼とあだ名されてきた、醜く恐ろしげな赤ら顔の僕はむろん異性の恋愛対象になったことがなく、また奥手な性格をしていることもあって、色恋とは無縁の人生を送ってきたんだ。

しかし大学四年生の十一月、二十二歳になったばかりのとき、僕は生まれて初めて女の子に二人で食事に行こうと誘われたのです。

夢かと思いました。彼女は同じ研究室に所属する同級生で、大学のミスコンテストで準優勝したことのある美貌と明るさを備えた人気者でした。彼女は僕の演習発表を誉め、僕とぜひ仲良くしたいと言ってくれました。華やかな青春を送りそこねた憂さを晴らすように研究に没頭していた僕は、心血を注いでいた演習発表を彼女がきちんと見ていてくれたということがとても嬉しくて、一気に彼女に恋をしてしまいました。


僕たちはしばしば学校外で会い、二人で出かけるようになりました。傍目から見れば美女と野獣というやつだったに違いありませんが、僕は舞い上がっていたため全く気になりませんでした。そう、僕は初めての恋、それも実る可能性のありそうな恋に夢中になるあまり、視野が狭くなっていたのです。彼女にクリスマスの予定を前のめりに尋ねてしまう程度には。


クリスマス、良かったらどこか一緒に行きたいな、という、今考えるとあまりにも自分勝手に浮かれたメッセージを送信して以降、彼女から急にメッセージが来なくなりました。また、学内でも姿を見ることがなくなりました。僕は彼女の身に何か起きたのではないかと心配して、二回ほど様子を伺うようなメッセージを送ったのですが、その翌日、学校で一度も話したことのないきらきらしい同級生のグループによって空き教室に呼び出されたのです。彼らは僕に、ストーカー行為はやめてほしい、彼女は怖がっているのだと言いました。彼女は院試対策のため、ガリサ文化研究の成果を教授に評価されていた僕に近づいていたに過ぎなかったのだそうです。

悲劇にも喜劇にもならない、恥ずかしいお話です。古来からさまざまな種類の劇が円形劇場で上演されてきたガリサにもこんな駄作はないでしょう。


僕は暗澹たる気持ちになりました。学内には醜い僕が美しい彼女にしつこく言い寄ったという噂が尾ひれをついて出回り、僕は研究室に足を踏み入れることができなくなりました。卒業に必要な単位は幸いにも全て取得していたので授業に出席する必要はありませんでしたが、ガリサ文化研究の第一人者の先生を追って大学院に進む気力が削がれてしまいました。


人は僕の容姿の醜さをそのまま悪ととらえるのだ。だがそれを責める資格がお前にはあるのか?お前だって彼女の容姿に惹かれていただろう。それに、容姿が醜くても魅力的な人柄で他者に愛されている人は世の中に少なからずいる。お前は甘ったれだ。だが、もし僕が、中身はそのままで、外見が美しかったら、美しいとまでは行かずともせめて今ほど醜くはなかったら、果たしてこうも激しく見知らぬ人びとから糾弾されただろうか?僕は頭がぐちゃぐちゃになりました。だから、何もかもを放り出して、ガリサ島へ旅立ったのです。


さて、窓の外の世界に夜の帳が落ちきった頃、ユリヤは夕食を運んできてくれましたね。

君の振る舞ってくれた食事は本当に素晴らしかった。僕は絵を描くのが好きなので旅記にしっかりと献立の絵を描き残していました。オリーブ、玉ねぎ、チーズ、ガリサ菜のサラダ、レモンの風味がきいたレンズ豆の煮物、ぶどうの葉に挽き肉と麦飯を包んで煮たガリサの有名な家庭料理のラクタリヤにライ麦パン。室内灯の下、君と雑談しながら食べた料理はどれもとても美味しくて、身も心も芯まで温まりました。


食事の後、君は部屋の棚の引き出しを開けて一枚の写真を取り出し、僕に見せてくれましたね。君によく似た美しい女性――君のお母さんが笑顔で写る写真を。


「巫女」は時代が下るにつれ神秘性が薄れ、ただ、代々売春を生業にする家になった。魚屋が代々魚を売り、木こりが代々木を切るように。


君のお母さんのマリヤさんが最後の「巫女」のはずだったんだと君は言いましたね。ところがマリヤさんが病で亡くなったとき、十五の君の姿を見たヨルゴスじいさんは、君に「巫女」をやらないかと持ちかけた。


「断ることはできた。だけど俺は怖かったんだ。今まで母さんと二人、社会の枠組みから外れたこの場所で生きてきた。それが今になって、賑やかすぎる社会の中でたくさんの人間に一度に揉みくちゃにされて生きていくのが怖くて仕方なかったんだ」


僕には君の気持ちが少し分かる気がしました。僕も、僕のまま、慣れた痛みを抱えているのに精一杯で、自分のことを醜いと蔑みつつ、整形をしようとはどうしても思えなかった。「赤鬼」であることは、僕の枷であると同時に盾だ。


そう言った僕に、君はありがとうと微笑んでくれましたね。


「なあヨシヤ、俺たち二人、どうしたって今の自分のまま変わることができないかもしれないけどさ、明日だけは、変わってみないか」


酒精に額を染めた君はいたずらっぽくそう言いました。

「というと?」

「明日はペアゾーネ祭の日なんだ。なに、テオ街区のささやかな風習さ」

そう言って君が通してくれたのは小さな物置部屋でしたね。絵の具や房飾りの材料、絵筆、工具などの並ぶその部屋の奥に山積みされた、奇怪な意匠の原色鮮やかな仮面や被りものに、思わず嘆息したものです。

「すごいなあ。これ、君が?」

「作ったんだ。ペアゾーネ祭の日にはみな、神や鬼の面で顔を隠し、手袋や首巻で素肌を晒さないようにして、なるべく沈黙を守りながら過ごすんだ。異形から身を守るために。限りなく地味なハロウィンってところだよ」

この面を売って生活のささやかな足しにしているのだと言いながら、君はきらきらとした目で面を見つめていた。


「ヨシヤ、俺は鬼の顔が好きだよ。恐ろしくて、個性的で、力強さがある。幼い頃からの憧れだ」


翌朝僕たちは、ゆったりとしたケープを身につけ、鬼を模した被りものをすっぽりと被って街へ出かけましたね。ガリサ人にしてはいささか小柄な君と、日本人にしてはいささか大柄な僕は、顔を隠すと双子のように似た体格になったので、僕らはびっくりして笑い合った。街には僕らのように祭りの扮装をしている者もいればそうではない者もいましたね。君と僕は、なんびとにも容姿を消費されることなく休日を楽しんだ。日が暮れ始めると、ユリヤは僕を野外映画場に連れて行ってくれましたね。ガリサ島の人びとが夜の闇に直接映像を映し出して映画を観るというのを本で読んで知ってから、一度実際に観てみたかったんだ。

映画を観終わって帰宅した僕たちは買ってきた酒を家で飲み、食事をし、いろいろ話して、風呂に入り、また飲んだ。そして気がつくと君はソファで酔って眠り込んでいた。


君に毛布をかけた後、僕は君から借りた被りものをつけ直して、しばらく鏡の前でじっとしていました。全てが名残惜しかったのです。君という友人との時間、ガリサの海風、「赤鬼」でいなくて済む被りもの。


僕を現実に引き戻したのはドアを荒く叩く音でした。ユリヤを起こそうかどうか迷っているうちに、ドアはさらに激しく叩かれ、やがて鍵がかかっているにも関わらず強引にドアが開かれてしまった。僕は慌てて台所から包丁を拝借し、玄関へ行きました。


玄関口に立っていたのは酒くさい大柄な男でした。チェーンがあったためかろうじて部屋に侵入はされませんでしたが、男はチェーンを乗り越えんばかりにドアの隙間に身を乗り出して僕をじろじろ見つめました。

「なあユリヤ! いつまで古くさい祭りの格好をしてるんだ。たまには俺と飲もうや、そんであわよくば……

男は被りものをつけた僕をユリヤと勘違いしたのです。

ひどい臭いのする息を吐いて下卑た笑いを浮かべた男のそのまなざしを僕は忘れません。

ああ、美しい人はこんな風に視線によって汚され、搾取されるのだ。ユリヤ、君は今までさぞつらかっただろう。僕もきっと君をすり減らした。うまく言えないけれど、そういうことを思いました。

あと、君が危険な目に遭っていたところ、こんなことを考えてしまって申し訳ないのですが、そのとき僕は自分の顔が「赤鬼」ではなくなったような気持ちになったのです。

僕の顔が僕自身含め誰にも見られなければ、僕は「赤鬼」ではなくなる。

そうして男が被りものの内側に隠れる僕の顔をユリヤの顔だと思っているうちは、きっと僕の顔はユリヤの顔なのだ。そんな考えが胸をよぎりました。


「なんだよ、黙ったままで、不気味だな」

もういいや、白けた。男は、ふいに酔いが覚めたような口調でそう言うと、千鳥足で踵を返してしまいました。僕はほっと息を吐くと、鍵が壊れたことをユリヤに報告しなければと思い、被りものを取った後に君を揺り起こしました。仔細を聞いた君は、まだ半ばまどろみの中にいるような目をしたまま「ありがとう」と笑いました。


「ヨシヤ、あんたは厄払いの鬼神みたいだ。俺の救世主だよ。なあ、古いガリサ語で、ヨシヤってのは神の子を意味するんだよ」


ユリヤ、すまない。君に謝意を向けられたあのとき、僕はただ嬉しいばかりではなかった。なんだか自分が、被りものを取ってもなお鬼の着ぐるみを着ているような気持ちになったのです。

君は僕の容姿が君の好む鬼に似ているから、僕を過大評価しているのだ。君が見ているのは僕ではなく僕の外見なのだ。本当の僕を知ったら君はきっとがっかりするだろうと思うと僕は恐ろしくなりました。たぶんこれが、美しい人の味わう感覚なのでしょうね。ああ、そしてやはり、君も俗世の人間なのだ。


この出来事が引っかかってしまって、君と別れるとき、僕はうまく笑えなかった気がする。そのことが後悔となって、ずっと頭の中にあったんだ。


ユリヤ、日本に帰った後、大学での出来事に加え、母が腰を悪くしたこともあり、僕は大学院へ進むことをやめて実家の文具店を継ぐことにしました。

昔から付き合いのある会社や近所の学校に文具を卸して生計を立てている小さな店です。客の少ないその店で、退屈ながらも穏やかな日々を過ごす中、僕は余暇の楽しみとして、紙が黄ばんだ廃棄品のスケッチブックを一冊もらい、以前よりも頻繁に、かつ集中して絵を描くようになりました。

デッサンの本も買い、我流ですがなるべく心で感じたものを紙に落とし込めるよう訓練しています。描くのは花や猫などです。また、油絵具を使って夕焼けの空を描きもしました。


美しいものが好きです。人を美醜で判断することの虚しさを身をもって知っていても、美しい花に見惚れるように、美しい容貌の人に見惚れます。大勢の人がそうであるように。君が、君の価値基準において、そうであるように。そのことの善し悪しなどについて、僕は考えても考えてもまだよく分かりません。しかし、最近やっと思えるようになったのです。ユリヤ、君の豪快な笑い声には、気安い冗談には、容姿の端麗さとは異なる美しさがあった。ねえユリヤ、僕は、どんなにつらいことがあっても、さまざまなことが不平等に思えても、目に見えない美しさを持った人でありたいと切実に願えるようになったのです。

子供だまし、きれいごと、そういうものに、一周回って人は行き着き、結局は純粋な願いで心を満たすものなのでしょうね。


ユリヤ、俳優たちに生き生きと特殊メイクを施す君は、鬼の顔をしていても美しかった。友人の活躍に、嬉しくなりました。これからも応援しています。遠く離れていても、どうかお元気で。



追伸

海に映る水仙の絵を描いたので、同封しました。君の家のそばに咲いていたものです。

それでは、今度こそ、さようなら。