旅するマラカス

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倉田翠さん演出舞台「今ここから、あなたのことが見える / 見えない」レポ?②


※レポという言葉を使ってみたかったのでレポとしていますが実態は客観的なレポというより主観的なエッセイもどきかもしれません。すみません。

そういうわけで無事会場に着き、パンフレット等々を頂いた。

座席は二つの角度から舞台が見られる仕組みになっていた。席は自由。階段状の席と座布団の席がある。

本番で友人を見つけられたらラッキーくらいに思っていたのだが、視界のど真ん中でデカい生花の角度を調整しているところが目に入ってきたのでびっくりしてしまった。友人は黒い筒に上品な配置で生けられた淡い色の花たちをプロフェッショナル的まなざしで睨み、厳密な調整を加えていた。


あまりじろじろ見ては悪いと思い、席に置かれていた白地のリーフレットに目を通した。

載っていたのは倉田翠さんがこちらの公演の参加者を募集した際のメッセージだった。


すごい文章だった。

「東京の中心で働く皆様へ、」というタイトルのその文章は、なんだか厳しそうで格調高そうでよその世界に生きてそうな「3歳から舞踏の世界にいた人」に対する偏見に満ちた私的イメージをぶち壊してくれた。


まず驚いたのが、倉田さんが過去の回想として「ずっと、ダンス(仕事)が楽しくなかった。なのにダンスを作る人(この仕事をすること)になってしまった。仕方がない、もうそれしかできないんだから」と綴っていたことだ。

これは、のちに舞台時の友人のセリフにもリンクするものがあった。

お花をずっとやってきて先生にまでなり厳粛な顔つきで公演前に花を調整していた友人は舞台の上で、他人の中での自己イメージが「お花のひと」になることへの忌避感を語りつつ、「だけどやめ方が分からない」と声を震わせて語っていた。


私的な話ばかり交えて本当に申し訳ないのだが、私は親の経済上、思想上の理由から、小学校の高学年時だけバレエとピアノを習わされてもらったことがあった。バレエもピアノもずっと習いたかったけど習えなくて、やっと教室に通えたときは嬉しかったが、小さい頃からそれらをやり続けている人の中で私は当然ながら論外の落ちこぼれで、とはいえ「大人の趣味教室」に入れてもらえる年齢でもなく孤独だった。

バレエ教室では一人重たく醜い踊りを披露し、クラスメートから無視され、ピアノ教室ではコンクールを狙う小さな男の子の指導に自分の時間を食われた。

そういう経験をした私にとって、小さな頃から一つのことをやる環境にいた人というのは、私の配られなかったプレミアチケットを持って特別な席に案内される人という感じだった。

だから、彼ら彼女らの苦悩に初めて触れ、非常に驚いたのだった。


また、倉田さんの文章は丁寧でチャーミングで、「皆様」への愛に満ちていた。

「基本的には振付が嫌いですので、振付はしません。じゃあ何をダンスとしているのか。その人が、ただ生きていること、もしくは、日々隠している欠点とも言える振付以外の部分が、私には宝物に見えています」


なんと!


ダンスって、振り付けとか体幹とかそういう、ガチガチに技術的で厳密なものの上でしか成り立たないものだと思っていた。


倉田さんは、「スーツを着る」「職場に見合った喋り方をする」といった社会人の社会人的な仕草を振付のようだと述べ、そういった仕草の影にある「振付以外の部分」を「宝物」と語っている。


そういう人間の私的な部分の素敵さが、まさに「大手町・丸の内・有楽町で働く人たちとパフォーマンス?ダンス?演劇?をつくるためのワークショップ」成果発表公演であった本舞台にはぎゅっと濃縮されていた。

(つづく)