旅するマラカス

小説やエッセイなど書きたいものを載せます

倉田翠さん演出舞台「今ここから、あなたのことが見える / 見えない」レポ?②


※レポという言葉を使ってみたかったのでレポとしていますが実態は客観的なレポというより主観的なエッセイもどきかもしれません。すみません。

そういうわけで無事会場に着き、パンフレット等々を頂いた。

座席は二つの角度から舞台が見られる仕組みになっていた。席は自由。階段状の席と座布団の席がある。

本番で友人を見つけられたらラッキーくらいに思っていたのだが、視界のど真ん中でデカい生花の角度を調整しているところが目に入ってきたのでびっくりしてしまった。友人は黒い筒に上品な配置で生けられた淡い色の花たちをプロフェッショナル的まなざしで睨み、厳密な調整を加えていた。


あまりじろじろ見ては悪いと思い、席に置かれていた白地のリーフレットに目を通した。

載っていたのは倉田翠さんがこちらの公演の参加者を募集した際のメッセージだった。


すごい文章だった。

「東京の中心で働く皆様へ、」というタイトルのその文章は、なんだか厳しそうで格調高そうでよその世界に生きてそうな「3歳から舞踏の世界にいた人」に対する偏見に満ちた私的イメージをぶち壊してくれた。


まず驚いたのが、倉田さんが過去の回想として「ずっと、ダンス(仕事)が楽しくなかった。なのにダンスを作る人(この仕事をすること)になってしまった。仕方がない、もうそれしかできないんだから」と綴っていたことだ。

これは、のちに舞台時の友人のセリフにもリンクするものがあった。

お花をずっとやってきて先生にまでなり厳粛な顔つきで公演前に花を調整していた友人は舞台の上で、他人の中での自己イメージが「お花のひと」になることへの忌避感を語りつつ、「だけどやめ方が分からない」と声を震わせて語っていた。


私的な話ばかり交えて本当に申し訳ないのだが、私は親の経済上、思想上の理由から、小学校の高学年時だけバレエとピアノを習わされてもらったことがあった。バレエもピアノもずっと習いたかったけど習えなくて、やっと教室に通えたときは嬉しかったが、小さい頃からそれらをやり続けている人の中で私は当然ながら論外の落ちこぼれで、とはいえ「大人の趣味教室」に入れてもらえる年齢でもなく孤独だった。

バレエ教室では一人重たく醜い踊りを披露し、クラスメートから無視され、ピアノ教室ではコンクールを狙う小さな男の子の指導に自分の時間を食われた。

そういう経験をした私にとって、小さな頃から一つのことをやる環境にいた人というのは、私の配られなかったプレミアチケットを持って特別な席に案内される人という感じだった。

だから、彼ら彼女らの苦悩に初めて触れ、非常に驚いたのだった。


また、倉田さんの文章は丁寧でチャーミングで、「皆様」への愛に満ちていた。

「基本的には振付が嫌いですので、振付はしません。じゃあ何をダンスとしているのか。その人が、ただ生きていること、もしくは、日々隠している欠点とも言える振付以外の部分が、私には宝物に見えています」


なんと!


ダンスって、振り付けとか体幹とかそういう、ガチガチに技術的で厳密なものの上でしか成り立たないものだと思っていた。


倉田さんは、「スーツを着る」「職場に見合った喋り方をする」といった社会人の社会人的な仕草を振付のようだと述べ、そういった仕草の影にある「振付以外の部分」を「宝物」と語っている。


そういう人間の私的な部分の素敵さが、まさに「大手町・丸の内・有楽町で働く人たちとパフォーマンス?ダンス?演劇?をつくるためのワークショップ」成果発表公演であった本舞台にはぎゅっと濃縮されていた。

(つづく)




倉田翠さん演出舞台「今ここから、あなたのことが見える / 見えない」レポ?①

※レポというには混じりけがありすぎるかも。すみません。


友人が舞台に出るというので先日観に行った。

演出家、振付家、ダンサーとして活躍されている倉田翠さんが、働く人々と創作したパフォーマンス「今ここから、あなたのことが見える / 見えない」は千円札を握りしめて行けば観ることのできるたった1日きりの舞台だ。

恥ずかしながら、元演劇部員ながら部内の同期に馴染めず退部して以降過剰な自意識でもって舞台やアート関連の情報を遮断していた私は倉田翠さんを存じ上げなかった。しかしちょろっと調べたところ、3歳からバレエを習って今も舞踊を研究している、無知な私ですら「ライチ⭐︎光クラブ」より存じ上げている飴屋法水さんとコラボしている等々なんだかいろいろすごくて友人すげえとなった(最低)。


そういうわけで舞台やアートや友人へのコンプレックスや友愛の心を抱きつつ、席を押さえて頂き、有楽町へ行った。当日はアイスコーヒーが美味しい晴天だった。

(つづく)




原作厨だけど、うる星やつら再アニメ化を「大昔のアニメの焼き直し」とは言ってほしくない

寅年の始まりに合わせてうる星やつら再アニメ化が発表されたことはわりとホットなニュースだと思う。

代表作が良アニメ揃いのスタッフ、クオリティの高いキャストのティザー、4クール押さえ済みでエピソードは原作から抜き出したものを放映することが決定済ということに漫画うる星やつらファンの私は狂喜した。


しかし、テンションが上がってうる星やつら再アニメ化についての世間の声を調べたところ、「大昔のアニメを今さら焼き直して何になるのか」という意見が散見されたので、なるほど、と思った。たしかに世間一般的に見ると今回のアニメ化はありがちなリメイクという感じなのだろう。けれどそれは違うんだよ、と言いたい。

今回のアニメは、「漫画」うる星やつらにとっては初のアニメ化に等しいと原作厨の私は感じている。


言いたいことをざっとまとめる。

・旧アニメはオリキャラやオリジナルストーリーがふんだんに盛り込まれ、テンポやノリが原作とはかなり異なる(原作の短い1話をオリジナル要素で膨らませているので原作ファンからするとテンポが悪く感じられる)

・原作はあまり時代感を感じさせない仕上がりだが旧アニメは良くも悪くも昭和の男性オタク臭がすごい

→旧アニメファンはそこが好きなのだろうが、原作厨としては、時代を感じさせない魅力のある作品がいきなり古びてしまったような気持ちになってしまった

加えて原作の繊細さがアニメでは押井守臭にかき消されてしまったのが遺憾だった


★つまり

旧アニメは原作とはかなりテイストが異なり、平成〜令和の人間が見るとテンポの悪い仕上がりになっているため原作厨としては不満の残る作品だった


原作準拠でうまくつくってくれるのなら今見ても40年のギャップを感じさせない面白さのあるアニメになると思うので、原作のテンポ感でアニメ化してほしいと願っている

さらにこれを機により多くの新規ファンが増えたらいいなと思う



……… ……… ……… ……… ………


原作厨を連呼しているが私はうる星やつら世代では全くない。るーみっく作品が大好きだが、犬夜叉世代ですらない20代女だ。父親がうる星やつらファンで、物心ついた頃に読んだうる星やつらに衝撃を受け、そのままアニオタとは少し異なるうる星やつら厨になった。その後、鋼の錬金術師ジョジョ進撃の巨人などさまざまな名作を好きになったけれど、どんなに素晴らしい漫画やアニメに触れた後でも、うる星やつらを読み返すと、思い入れを除いても面白いな、と感じるのだ。

しかし、アニメだ。

旧アニメは旧アニメで熱狂的な信者が多く、それ自体がコンテンツとして独立しているのは理解はしているのだが、旧アニメの魅力である昭和オタク感は、原作のうる星やつらの大きな魅力である、時代を感じさせない独特の作風を見事に潰しているのだ。

まあ、原作も7巻くらいまでは昭和テイストが強く、いまいち面白くはないかな?という話もちらほらあるのだが、20巻代くらいになると、絵柄や物語が完全に独自の世界観を作り上げていて、永遠に連載できるドラえもん並みの域まで達している、といち原作厨は思っています。


そんなわけで、幼少期からうる星やつら=旧アニメ=昔のオタクが好きだった古い話でしょ?という認識に不満があり、うる星やつらの再アニメ化が夢だった原作厨としては、今回のアニメ化は泣くほど嬉しいです。スタッフの顔触れ的にも封神演義の二の舞にはならなそうなので期待しています。アニメがはじまったら新規の評判をTwitterとかで調べたいけど、「メガネの出番が減って寂しい」とか「あの時代は戻ってこない」とか「内容が(旧アニメと)違う、こんなのうる星やつらじゃない」みたいな旧アニメファンの嘆きで溢れかえってそうなのでやめておきます。 


スプーンがなくなる

それなりにストックを用意して、使うたび洗い、また台所の引き出しに戻しているはずなのにスプーンが少しずつなくなっていくのはどうしてだろう


朝に生まれて夜に死ぬ〜カウンセリングを受けた話



今日、学生時代からお世話になっているカウンセラー兼ヒーラーのちゃこさんという方のカウンセリングを受けに行った。

カウンセリングといっても名前のように仰々しいことはない。薬品のにおいのする白く無機質な部屋でチェックシートの記入を迫られるわけではない。かといってヒーラーという言葉に滲む怪しげなオカルト要素もない。


ただ、緑がきれいな部屋で手料理とお茶を振る舞ってもらいながら、長い人生経験を有するちゃこさんとおしゃべりをし、本音を引き出してもらうだけ。

第六感を含む観察眼に基づいた的確であたたかな、しかし押し付けがましくはないアドバイスがとてもありがたい。


最近キャリアのことで悩むことが多く、いろいろお話ししたのだが、目から鱗が出た言葉を頂いた。


「みんな、自分のやりたいことを後回しにするのね。自分がいつまでも生きてるという感覚があるから。だけど、時間は有限なんだよ。その日の朝に生まれて夜に死ぬのだとしたら何がしたいか、考えて、書き出してごらん。それで、できることからやっていったら、自分の軸ができていくから」


私は、書く仕事、文化に携わる仕事に憧れつつも挫折し、あれこれ遠回りしていた。けれどちゃこさんの言葉ではっとした。


朝に生まれて夜に死ぬ、凛として素敵な言葉だなと思う。


ちゃこさんはまた、気負わず書きたいことを書けばよいと言ってくれた。その言葉はずいぶんと気持ちを楽にしてくれた。


そういうわけで、今夜死ぬ今日の私は、文章の巧拙や反応を気にせず楽な気持ちで文章を発信することにした。

まず初めにこの言葉をシェアできたら嬉しいな、と思う。


【文學界新人賞で三次落ちした小説】忘備録

夢野めぐみというペンネームで「忘備録」という小説?を書いて文學界新人賞に送りつけたことがあります。

半年かけた大作は一次落ちしたのに3日も使わず書き散らかした純文学もどきの本作はニ次選考まで通過したのでわけわかんないなと思いました

※エロとあたおか注意
 
 

 

 

【本文】

 

こうして、電車に揺られて座っていると、さまざまなことを思い出します。くだらないこと。夢に出てきたカメムシが今朝ホームで踏み潰されていたこと。中学生の時に書いた拙い手紙。二十歳の時、初対面の人間で処女を捨てたこと。

 

私は自分で自分がよく分かりません。周囲からは大人しくて真面目な元文学少女だと思われていますが、実際私が読むのは漫画ばかりです。こういうエセ文学少女上がりの女はよくいるのだと思います。青い猫のキャラクターの「からだのふしぎ」だとかなんだとかいうシリーズで、スモールライトを浴びてカプセル型の船に乗った青猫たちに体内に入られた挙句、脱出のために強制的にお腹を下させられて、脱糞したところを青猫たちに見られ、羞恥で泣き叫んでいたガキ大将の姿が性の目覚めであった小学五年生も、私以外に少なからずいたと思います。しかし、通勤電車に揺られる平凡な事務員の私には、悲しいかなそのくらいしかアイデンティティと言いますか、特筆すべきエピソードがないのです。

 

処女を捨てたことも、分類するなら唾棄すべき、しかしながらそれくらいしか個性として縋るものがないような女のささやかな経験のうちに入るのでしょうか。

 

私は、今まで一度も正式に付き合った人や、好きな人とキスやその他性的行為をしたことがありません。でも、ネットでいくらでも性的な情報を拾うことができ、また自分とは縁のなさそうな人間と出会うことができる今日び、私のような人間は少なくないような気がします。ただ、みんな内緒にしているだけで。昨今、たくさんの人がカジュアルに性を売り、性的なやり取りをしています。カジュアルという言葉は強い。そこには、レイプとか盗撮とか性病とか妊娠とかいう現実の陰惨さを覆い隠す力があるのです。

 

最近、私の勤める司法書士事務所に水道の工事の業者の人が何人か入っています。そのうちの一人は浅黒く日に焼けて、ピアスをし、仲間たちと釣りの話をしています。年は四十代くらいです。私はどきりとしました。私が初めて寝た男も、日焼けしてピアスをして釣りの話をする四十代の男だったからです。だけどあの人は車の店の営業担当だったので、この水道業者ではないでしょう。

 

こういうことを書くと、私はいやな気持ちになってきます。なんで私は、出会い系を利用する若い女の典型のように、女に飢えた「いかにも」な中年男性を初めての相手に選んでしまったのか。没個性かつ不快なそれは、ほこりのこびりついた和式便所の床のようでした。いや、このまとわりつくようないやらしさはむしろ、水道管工事のせいでここ数日事務所に漂い続けている排水のにおいに近いかもしれない。切り開いた便所の管から漏れ出る嫌なにおいから逃れるようにマスクをして仕事をする私は、私自身の不快感と言うよりむしろ、前のデスクに座るミチコさんの体調が気がかりでした。

 

ミチコさんは、私の勤める司法書士事務所の所長の娘で、化粧っ気のない独身の四十がらみの女性事務員です。ミチコさんは雑用で精一杯の新米の私と違って司法書士業のベテランなので、商業登記の仕事を一人でばりばりとこなしているのですが、体力虚弱らしくいつも咳をしては「しんどい」「お腹痛い」「頭痛い」と独り言を言っています。最近は残暑のせいで特に調子が悪いらしく、独り言のレパートリーに「もう嫌だ」が加わりました。ミチコさんには女性のいやらしさのようなものがないので大変助かっていますが、その一方で、小さな事務所でぶつぶつと呟かれる昏い独り言を四六時中聞いていると気が滅入ってくるので困っています。

 

そんなミチコさんなので、水道管工事が始まったら仕事もあまり手につかない様子でぐったりとしていました。普段は戸締まりを任されているせいで私より遅く帰るのですが、昨日は木くずや薬品のせいで夕方ひどく咳き込んでいたので、所長に「もう帰っていいよ」と言われて私と同じエレベーターに乗り込んでいました。その時私は「あのう、咳き込んでましたけど、大丈夫ですか」と月並みな言葉をかけたのですが、その言葉の薄っぺらさが恥ずかしくなって、「言葉のかけ方が下手ですけど」とぼそぼそ付け加えました。ミチコさんは私の道化じみた言動に少し笑ってくれたので、ほっとしました。私はミチコさんのぶっきらぼうさや独り言に困っているところがありましたが、一方でミチコさんと仲良くなりたいとも思っていました。うわべで人と付き合わないミチコさんが打ち解けてくれたら、それは真に彼女が私に打ち解けてくれたということで、とても喜ばしいことだからです。

 

ふと思いました。私は、あのとき車屋の男とセックスしなければ、たぶん今も処女だったのだろう。そして、そのような私はミチコさんのような四十女になるのかもしれない。けれど私はセックスしたので、ミチコさんではなくなった。分類しがたいけれど、さりとてバラエティの変わった人特集にも出られないような何かになってしまった。

 

あの日、私は川越駅西口のロータリーで男の車を待っていました。なぜ私が出会い系サイトの中であの男を選んだのかというと、男がサイト内の掲示板に「元AV男優で、テクニックには自信があります。たっぷりと前戯をします。奉仕が大好きです」と書き込んでいたからです。手慣れた中年男なら、比較的楽に初めての壁を越えられると思ったのです。

 

こうして、初めてだの初体験だのという言葉の青臭い字面を思い浮かべると、青春の香りがするそれを誰にももらわれずに生ゴミのゴミ箱に捨てた自分の惨めさに吐きそうになります。けれど、それでも私がこのことを想起しているのは、たぶん事務員のミチコさん以外の誰かに、もしくは事務員のミチコさんに、私のことを知ってもらいたいからかもしれません。

 

そもそも、恋だの愛だのを省略してセックスしてしまおうと考えたのにはいくつか理由がありました。一つは、世間というものに踊らされ、喪女だのヤラハタ(やらずにハタチ)だのをコンプレックスに思っていたということです。もう一つは、私は父にハラスメントを受けており、大学生にもなってアルバイトを禁止されるありさまで、家を出たいと考えていたのですが、私はとことん無能な小娘だったので、ろくに働ける気がせず、結果、身体を売ることを視野に入れていたからでした。身体を売る前に、いわば職業訓練校に通うように、慣れた人間を相手に経験を積んでしかるべき技術を身につけようと思ったのです。馬鹿みたいな話ですが当時の私は大まじめでした。また、身体を売るというと、親からもらった大事な身体を売るとは云々とか、親が悲しむとか、よく言われますが、その点私に対してはその理屈は通用しませんでした。そもそも私は、コンビニやテスト採点のアルバイトをしようとしただけで「兵仗教の光の子が俗世に身を堕とすだなんて」と父に悲しまれていたので、前提条件が成り立たないのです。

 

父はいろいろと不遇な人で、精神が不安定になった結果オカルトやスピリチュアルに傾倒し、母もまた同じでした。二人は私を「光の子」だと信じており、父は会社をリストラされて派遣で職を転々とした後、いつの間にか兵仗教なる新興宗教を立ち上げていました。どうせ教団を作るなら少しは儲けてくれと思うのに、父と母は全くの善意によって教団を営んでいたので、家計はいつも火の車でした。父は私を特別な子と信じて様々な制約を設け、守らない私に夜通し説教することもしょっちゅうでした。そんなありさまだったので、就職にはひどく苦労しました。両親、特に父は私に教団を継がせようと様々な心理的圧力をかけ続け、結果的に私は大学四年生の1月まで就職できずにいたのですが、結局金儲け主義の薄い個人経営の小さな司法書士事務所に就職することをなんとか認められました。あれはほとんど奇跡に近い出来事でした。それから両親は、私が家にお金を入れることで少し精神が安定してきたのか、兵仗教の光の子という設定を忘れつつあるようでした。やっぱり世の中お金なのだ。

 

あと一つは、単純に、性欲です。私は酒やたばこに依存しない代わりに自慰による快楽にずいぶん依存していたのと、あとたぶん当時私の肉体は子供を作るのに最適な時期だったのでしょう、私の動物的本能がやたらとセックスしろと訴えかけてきて、頭がおかしくなりそうだったのです。

 

そういうことが重なり、私はとにかくセックスしなければならないという観念にとらわれていました。それでも、身の危険とか倫理とか色々、普通の感覚もないわけではなかったので、私は私自身に約束を課しました。二十歳になるまで恋人を作るよう努力する。ただし二十歳になっても恋人ができなかったら、そのときは強引に処女を捨てる。そんなわけで、私はさまざまなサークルに入りましたし、ネット恋活やらカップリングパーティーやらにも精を出したのですか、結局いいなと思いも思われもせず、デート相手とはたいていいつも三、四回ほどで音信不通になったので、仕方なく出会い系の元AV男優とセックスすることにしたのです。

 

秋のことでした。私はドレープがおしゃれな赤いロングスカートを履き、精一杯めかしていました。もしかしたら男の車にさらわれて強姦殺人されてしまうのではないかという不安を胸に抱きながらロータリーでうろうろしていると、男から電話がかかってきました。

 

「今、どこにいる?」

よく見えないんだけど、という声は不機嫌そうだったので、少し気落ちしました。面倒くさそうに抱かれるのはあまり気が進まなかったのです。けれど実際に落ち合ってみると、男は「写真より可愛いね」とまんざらお世辞でもなく言って機嫌良く笑ったので、胸をなで下ろしました。そしてまた私の方も、男の見た目に少しほっとしていました。男は落ちくぼんだ目をした鷲鼻の中年でしたが、写真よりも若々しく、身体は鍛えられて引き締まっていたからです。男は、近くで見ると、若い頃美少年であった面影をまつげの影の落ちる目元に残していました。お互い、ネットにはびこるろくでもない人間の中でもそこそこましな見てくれのが来たので幸先がいい、という感じでした。

 

男は車を運転しながら、自分がかなりの女と遊んできたこと、この車で悪臭のひどい豚のように太った女と三回セックスしたことなどを話しました。さすがに、少し辟易としました。男にしてみれば、その女が八百屋に並ぶふとましい大根なら、私は横に置かれたゴボウというところなのでしょう。けれど私も目的のために男を消費するためにここにいるので、人のことは言えませんでした。

 

男は、私が処女であるということを気遣って、川越街道脇のわりときれいなラブホテルの、夜景の見えるそこそこ値の張る部屋を取ってくれました。こんな馬鹿な女に一応気遣いをしてくれるなんて、この人は優しいのだなあと思いながら私は煙草を吸うその男の腕にもたれかかっていました。この男がクズなのは分かっていましたが、それでも私にとっては、神を信じる無垢な父の高潔な愛情とやらより、俗物な男のささやかな気遣いの方が気が楽だったのです。

 

私は、抱かれました。その間、身につけていた黒い下着はベッドサイドのソファにわだかまってじっとしていました。

結果的に男は、何かとくだらない理由をつけて生で挿れようと説得してきた以外は概ねまともな抱き方で私を抱きました。男と別れ、川越駅の中のミスタードーナツに入った私は、タンメンを食べました。あっさりとした味の麺を啜っていると、歯に何か挟まっていたので、取ってみると男の陰毛でした。私は、陰毛が歯に挟まるのって本当だったのだなあと思いながらタンメンのスープを飲んでいました。今となっては非常に恥ずかしいことなのですが、その時の私は大人の仲間入りをしたような、妙に得意な気持ちで、晴れ晴れとタンメンを食べ終わり、帰路についたのでした。

 

たぶん、あの頃の私は色々なことが重なったせいで気が狂っていたのだと思います。私は毎日メールで男と猥雑なやり取りをし、オナニーし、目覚まし時計を勝手に買って来たとかで父に怒鳴られ、またオナニーしていました。価値観というか、尊重すべきものが我が家では全てさかさまでした。私は、その男に抱かれていればとりあえず幸福なのだと信じつつ、他の男も試したくなって出会い系サイトを巡っていました。そんなことをしていても私はやはり光の子だと思われていたし、学校では真面目で清純な学生だと思われていました。

 

そう、私の家は貧しく、自分の思考回路はあばずれなのに、私はなぜか生まれつき、清廉な金持ちのお嬢様だと出会う人間のほぼ百パーセントに思われて来ました。一つ断っておきますが、これは自慢ではありません。実体が伴わないままお嬢様だと思われるのがいかに不幸なのか私は身をもって知っています。

 

例えば、Aというおもちゃがあるとします。その上位互換の、Aプラスというおもちゃがあります。私は幼い頃から、Aを持っているクラスメイトに、夢野さんはいいよね、Aプラスを持ってるんだからとなんの根拠もなく言われ、妬まれ、いじめられて来ました。大人たちはいじめられる私を見て、お前は恵まれた箱入り娘なんだから、これくらい苦労するのがちょうどいいんだよと笑っていました。全て本当のことです。冗談じゃありません。私はAプラスどころかAすら買ってもらっていませんでした。それなのに、なぜ私はAを持っている恵まれた子供たちにいらない嫉妬などされなければならないのか。私はこうして、行き場のない感情をペットのように側において育ちました。

 

誰が甘やかされたお嬢様だって? たしかに私は、恐ろしく不器用で気が利かないので、そういった点を愚図と罵られるのならば甘んじて受け入れましょう。けれどそれをお嬢様というよく分からないイメージに転換し、お前は恵まれている、という、気にくわない別の生き物を見るような、妬み嫉みの混じった感情を押し付けるのだけはやめてほしい。ふざけるな、お前たちが安穏と寝ている間、私は父に、演劇をやりたいとかAを買ってほしいとかいう子供らしいわがままを踏みにじられて、昼も夜も、私がごめんなさいと泣いて土下座をしても、いかに私が強欲なのか、演劇の才能なんてないからやめなさい、お前は弱虫だから悲惨ないじめられ方をするのがオチだと、惨たらしいいじめの具体例や、ゲームによる身体への悪影響を嫌がる私に畜生みたいな語り口で吹き込まれ続けていた。私はおどおどとしてわがままを言わない可愛くない人間として常に集団の最低辺に位置し続けていたが、幼い頃からこんなに踏み付けにされて明るく奔放に朗らかに育てるのは漫画の主人公くらいのものじゃないか?私は少年ジャンプの誌面にインクとスクリーントーンで描かれた人物ではないので、無理です。以上。

 

とにかく、何かにつけてお嬢様と揶揄され、理不尽に僻まれ続けた私は、自分がどれほど破廉恥な真似をして心根の卑しさを増幅させたらその印象に影が落ちるだろうかと思いましたが、身体を売っても姦淫しても嘘をついても、私は他人の中でうんざりするほど深窓の令嬢の印象を持たれ続けたので、これはいっそ詐欺師になるしかないのだろうかと思ったほどでした。

 

少し話が逸れましたが、とにかく私は元AV男優とまた会いました。けれど元AV男優は、処女でなくなった私に対する気遣いが大いに減っており、私はげんなりとしました。二度目のセックスはさほど良くなく、三度目のセックスはわざわざ川越から離れた男の家の近くに呼び出されました。私は、そろそろこの男とは年貢の納め時だな、と思いながらプレハブ小屋のような妙なラブホテルで男と寝ていたのですが、二回め、男がテレビをつけて見ながら腰を振り始めたので、私はふいに虚しくなり、誰とも抱かれたくなくなって、その日の帰りに男の番号を着信拒否にし、泣き暮らしました。

虚しくて虚しくて死にそうな気分でした。

 

私は、大人の仲間入りをしたのではない。段階を踏むべきところを大いに足を滑らせ、中年男の「タダマン」として処女を喪ったのだと思うと、悲しかったのですが、とはいえ私の元に駆けつける少女漫画の彼氏や白馬の王子様など望むべくもなく、また、現実の恋愛も一生できる気がしなかったので、どうせなら十万くらいで処女を売れば良かったかなあと考えていた私は、やはり頭のネジが二本ほど外れているのかもしれません。

ともかく、私は、栓の抜けた炭酸水のような存在になってしまったのです。もしくは、死に損ないのゾンビかもしれません。

 

ああ、なんだか嫌になってきました。本当は、のちに勤めたセクシーキャバクラの珍客の話や、クンニ風俗なるものに集うクンニの猛者たちの記憶などを思い浮かべようとしていたのですが、なんだかここまで来ると個性というよりも、私がただ色情魔のような猥雑だけが突出した平凡な女だということを突きつけられているようで、胸焼けがして来ました。おまけに私は、ディープキスやボディタッチという、性行為におけるABCで言えばAの段階のみ、セクシーキャバクラの花びら大回転で三桁の客を相手に許していたせいで、Aだけが図抜けて商売女くさくなってしまったのにも関わらず、それ以上の行為は、実はあの元AV男優とした以降、行きずりの相手一人と一回しかしていないので処女に毛が生えた程度という、いびつな体になってしまったのです。自業自得というほかないのですけれど。なんてつまらないのだろう。いっそ、商売女として、落ちに落ちた方がもっと面白い見世物になれたのに。もしくは兵仗教の聖女として、良家の子女という外見そのままで、潔癖な生活を営んでおけば、精神統一ができたかもしれない。けれど現実の私は、貞操観念だけ壊れているのに、性器は青く、元の小ささも相まって、男を入れることも子供を出すこともままならない始末で、要するに、誰からも相手にされないみじめな女なのです。回想によって改めてそのことを再確認させられ、泣きたくなりました。とはいえ、私という人物の中で、野次馬根性にしろなんにしろ、人に面白がってもらえるような要素は他にそうないのです。なんせ私は普通の事務員ですから。

 

一応、アイデンティティというのは他にもあります。これもまた施餓鬼地獄のように目を覆うような醜悪かつ唾棄すべきものなのですが、私は、漫画やアニメに出てくる男の子たちのうち、特定の二名について、彼らがあたかも恋愛関係にあるかのような妄想をし、その妄想を小説や漫画にしたり、同じ妄想によって作られた作品を読んだりするのが好きで、近年はその妄想に金という金、時間という時間を割いています。

 

こういったことを思い返すと、いつも考えるのが、この異常な文化を文学界の精鋭の方々に教え、何かしら思うところを書いてもらえるよう頼み込んだら、その先生方は何を思い、何を綴るのかということです。

 

馬鹿馬鹿しいと思うかもしれません。そんな、道端に捨てられた空き缶のようにありふれてくだらないオタク趣味なんかを文壇のすごいひとの目に触れさせるのは時間の無駄かと思うかもしれません。けれど、一概にそうは言えないことを、私は高校時代の美術の先生との経験によって知っています。

 

先生は、東京の偉い美大を出て、色々活躍しながら美術の先生もこなす、人のいい中年男性でした。先生の受け持つ自由絵画の授業で、私はてんでやる気がなく、ふざけて、いかにオタクくさく痛々しい絵を描くかということを己自身と競い合い、鳥籠に入った白い薔薇やら隻眼の白ずくめの男やらチェス盤やらを描き散らかしたのですが、先生は私の恥ずかしい絵を覗き込むや否や、これはなんとか風の流れを汲むなんとか風の趣があるねと褒めちぎり始めたのです。おべっかかと思いましたが、結果的にその絵はコンクールに出す作品として選ばれ、まずまずの賞を獲って三年間校舎の入り口に名前入りで飾られることになりました。私は以降三年間クラスメイトに陰口を叩かれました。生き恥を晒しました。

 

このように、サブカルチャーに疎い人物は、色眼鏡をかけず、実に新鮮な捉え方をするのだという経験は非常に興味深いものでした。ですから、私はいつか大いなる意義をもって文壇の寵児らにこの地獄の釜の中身のような文化を知らしめたいと思っているのですが、残念ながら、いくらこういったことを紙に綴って小説として送りつけても、これを目にするのは(そもそもまともに読まれるかどうかという問題はさておき)下読みの方々でしょう。私は出版業界の事情には疎いのですが、たぶん下読みというのはなんとなく文学が好きかもしれない程度のアルバイトがやる気がします。もしくは小説家志望の熱血漢かもしれませんが、どうでしょうか、ここに書き込んで教えてください、という冗談はさておき、とにかくあなた様方は、きっとスマホ片手に電車に乗り、ワナビーを電子掲示板において鼻で笑う程度には現代っ子なのだと思います。

 

ですのでつまり、下読みの方々には既に、ボーイズラブ(男性同士の恋愛を描いた創作物その他のことです)二次創作というサブカルチャー文化はこれこれこういうくだらないものだという概念を持っており、私の言葉に対し、よくいるんだよね、こういう文字書き気取りで自分に酔った世間知らずなオタクは、こんなオタクの戯言を読み飛ばしてはペケをつけるこっちの気持ちにもなってくれよ、早く帰ってビールが飲みてえなあなどと思うでしょう。しかし、考え直していただきたい。だって、改めて考えると、頭がおかしいとしか言いようがないではないですか。我々は人様が作り上げた架空のキャラクターの、ありもしない恋愛の過程を何百何千通りも妄想し、その妄想のために日々の時間の大部分とたくさんのお金を費やし、やれこの彼とあの彼は恋仲だけど、あちらの彼とは恋愛関係にあるはずないじゃないかだの、この彼があの彼の肛門に男性器を挿入すべきであって、逆はあり得ないだとかいうことを日夜真剣に議論しているのです。なんの生産性もないのに、そんなことをしているのは、楽しいからというだけではありません。みな真剣に、苦しみながら、湯水のように時間やお金を注ぎ込み、二人の目や髪の色が二色使われている化粧品や雑貨があれば「概念、概念」と叫びながら値札を見ずに買い漁り、紙の上の男に同じく紙の上の男の性器を差し込むさまを絵や文章で表現し、またそういったものを買い漁ってはむせび泣いているのです。

 

ねえ、異常ではありませんか。異常で、面白くはないですか。

 

ええそうです。これは媚びです。ああどうか、この場で私の無知蒙昧な主張を打ち捨てずに、何かの気まぐれかお慈悲かで、えらい審査員の目に入れていただけるなら、あなたは神々しいまでに輝いた純白の新雪が汚れるさまを現実で見られるでしょう。それは、意義があることだと思うのです。あらゆる卑俗な文化、それに傾倒する狂った人々によって回る経済。そういうことに一考察を加えて頂くというのは。

 

私は今、確かに媚びました。しかしながら、これから申し上げることは、媚びではなく、私というか弱い存在の小さな胸にいっぱいに広がった純粋な良心なのですが、もしあなたが純文学作家志望の夢に燃える人間で、かつ私が申し上げた「意義」やその価値をもし理解できないようなのであれば、悪いことは言わない、純文学作家はあきらめたほうがいいですよ。私のような卑小な存在ですら分かっているようなことが分からないようでは、かわいそうに、あなたがいくら文学同好会に入って仲間と研鑽を摘んだり文壇の誰それとコネクションを持ったりしたところで、時間の無駄だ。センスが皆無だ。しんから善意でお伝えします。死んだ方がいい。純文学作家志望のおのれを殺害し、いなかに帰って野菜でも作っていた方が、はるかに世のためというものです。

 

少し意識が逸れました。

 

とにかく私は薔薇色妄想の徒であるのですが、ここは息苦しい世界です。理由としては、学校だとか職場のような閉鎖的な集団の例に漏れず、明確な序列があるということがあります。

 

妄想世界におけるヒエラルキーの一番上は、プロ並みに漫画がうまい、もしくはプロとして漫画を描いている人間です。薔薇色地獄の人々はみな、抜群の画力をもって薔薇色妄想を描き出す彼女たちを神と崇めてひれ伏しています。これは比喩ではありません。本当に神として崇拝しているのです。薔薇色妄想の住人は、往々にして現実から逃れ、手軽に摂取できる娯楽を求めているので、同じ妄想の創作者でも、漫画を描く者の方が小説を書く者よりはるかにもてはやされ、漫画のうまい者は日々芸能人並みにちやほやされています。私は妄想小説を綴って一定の読者数を獲得しておりますが、黙って小説を読み捨てられるだけで、書いている私などどうでもいいというような扱いです。絵を描く人間とは雲泥の差です。ここは、そういう世界なのです。

 

しかしながら、例外もいます。

 

mという妄想小説の書き手は、ソーシャルネットワークサービスのフォロワーがフォロー数の百倍いて、小説を書いたとあれば我々餓鬼たちはみな嬉々として馳せ参じ、みなmをプロの漫画描きと同様に崇め、慕い、字に疎いギャル(というのは死語でしょうか、分かりません)すらも「感動した」と涙を流すような小説を書く人物です。

 

mは、登場人物の感情の揺らぎや人間関係におけるジレンマを見事に描き切っています。mの小説に登場するキャラクターたちは、決して原作の彼らから逸脱していないのに、単に原作では見られない彼らの側面を肉付けされているだけではなく、新たな価値観を落とし込まれて、物語の中で生きているのです。mは、ファーストペンギンのような存在なのです。

 

新たな価値観の提示というのは、文学における意義であると思います。闘争に燃えながらも挫折して赤子に脚気の乳をやってしまう女の描写を通じて人間の弱さを描いた平林たい子、ストーカー的存在の加害性を指摘した太宰治。私は、私では到底気づきそうもなかった概念を見つけ出し、それを見事な文章で表現するmのはるか下で絶望していました。きっと、たくさんたくさん本を読んで、知識を仕入れれば、新たな着想を得たふりをすることはできるでしょう。

 

mだってもしかしたらそういう類の人間なのかもしれないと自分を慰めることもありました。けれどmのSNSでのひとりごとを見て、私は、mが悲しいくらい本や、物語を知らない人間であることを知ってしまいました。泣きたかった。

 

mだけでない、私は、価値観がひっくり返されるような小説に、今まで妄想世界でたくさん出会ってきました。それらは、原作の設定を知らないと成り立たない、いわばトランプタワーのように足場が心もとない作品たちで、しかしだからこそ、普通の書籍には感じられないオリジナリティを感じました。そうだ、私は、有名な本を多少は読んで来ましたが、妄想世界で出会ってきた作品ほど強く心に残った作品は、ほとんどない。

 

私は、感謝すべきでしょうか。コンピューターの人工知能が、たくさんの情報をインプットされた結果将棋が強くなったこの時代に生まれたことを。オリジナリティだとか斬新な発想だとか、うちから生まれるものが何もなくても、膨大なデータを取り込みさえすれば、そういうものがある「フリ」ができることを喜ぶべきでしょうか。

 

私は、しばしば「フリ」をします。みんな、私のオリジナルな着想だと思い、喜んでくれます。だけど、夜になると虚しくなって、少し泣きます。

 

私は路傍の石です。田舎で野菜を作るべきなのは私です。ごめんなさい。何度も繰り返します。ごめんなさい、ごめんなさい。けれど私はあなたと違い、とろくさくて、力もなくて、笑うのも苦手で、職場で工夫した仕事はいつのまにか古株の事務員にかすめ取られ、私自身は甘ったれた小娘として皆から生暖かい視線を受け続け、何を、お前は肉親に妙な宗教の教祖であれと強いられたことはあるのですか、そんなことを心の中で叫ぶしかない、永久に下っ端の、事務員なんです。野菜なんてたいそうなものを生産する能力はないのです。私は、小さな鉢植えの草すら枯らしました。半円形のガラスの鉢の中で、半月水を与えなかった植物はカビを生やしていました。私は、自分が、子供を餓死させ、蝿がたかるまで放っておくような、そういう種類の人間なのだと気づかされ、愕然としました。

 

こんな風に、何をすることもできず、オロオロしながら、声優とか漫画家とか作家とか、そういう馬鹿でも知っているような存在に憧れて、ごっこ遊びをするように甘ったれた努力もどきをする人間が今日び山ほどいるのは分かっています。

 

みっともない。恥ずかしい。けれど希望を捨てられない。

 

 

そんなわけで、私はmの存在を前にささやかな努力をしました。まず、mが書いて小説投稿サイトに投稿した作品全十七作に対し、一つずつ、構成を書き出し、特徴的な言い回しや会話と地の文の割合について考え、それぞれのキャラクターの解釈をまとめました。mの作品は一作品につき平均二万五千六百四十七字、 六ページ、文体は全て一人称で、二人の主要登場人物の間で一ページごとに視点が切り替わる。作品の中でも、特に人気なものの傾向、投稿のタイミング、その他。ソーシャルネットワークサービスもチェックしました。mが初めてソーシャルネットワークサービスにて発言した内容は何か、次は何か、いつからたくさんの反応を得るようになったか。

 

そういう、mに憧れている者なら誰でもやっていそうなありきたりなことをする中で、私はmの日記ブログを見つけました。mはたいてい午前十時ごろに、「今日のノルマが終わった」と書き込んでいました。ノルマが終わったら、家から出て、買い物をして、資料探しをする。仕事をしたくないから、息抜きに薔薇色妄想の小説を書く……。mは在宅業務の従事者であることが分かりました。

 

mは、ある予定日までのスケジュールを見直さないと、このペースじゃ、などということをしばしば書き込んでいました。mの三日前の日記にはこうありました、「今日の分は書き終えた」。

 

mはなにがしかを執筆する仕事をしているのだ。私は、幼稚園児みたいに、すごいなあと思いました。仕事で文章を書いているのに、嫌にならずにハイペースで二次創作をし、さらに日記まで書くなんて、私なら息切れしてしまいそうだ。そうか、mは、仕事という場で文章というものに対したっぷりと向き合って来たのだ、それだったら上手く書けて当然か、という安堵と、いくら文章を書いても、嫌にならず息抜きでまた文章を書く、そういう、パンをおかずにしてパンを食べるような真似ができる活字の申し子こそが小説家に相応しいのか、という思考がないまぜになりました。この感情を持て余した私は、少人数しか見られない鍵つきのソーシャルネットワークサービスアカウントでこういった独り言を呟きました。mがプロの作家なのだとしたら、オリジナルのお話も読んでみたいとも言いました。そうしたら、懇意にしている薔薇色妄想界隈の友人から、メッセージが来たのです。

 

「このmさんは、プロの作家ですよ。良ければ、ペンネームをお教えしましょうか」

 

私はお願いしますと即座に返信し、そして、告げられた名前に愕然としました。

 

M.H.。

M.H.といえば、昨今の商業BL(出版社から一般書籍として発行され、書店に並ぶボーイズラブ作品のことです)に疎い私でも知っているような、有名なベテランボーイズラブ作家です。彼女の作品を私は読んだことがありませんでしたが、BLアワードだとかなんとかの一位にここ数年で入っていた彼女の作品はレビューサイトでかなりの高評価で、読んでみたいな、とは思っていたのです。

 

アハハハハ。笑ってしまいました。その時私は退勤後、隣町の図書館の隣にある木々の生い茂った公園にいたのですが、その公園に他に人がいなくて良かったなと思いました。

私は、何と戦ってたんだろう。脱力してしまいました。勝手にライバル意識を持っていた相手が雲の上の人で、ほっとしたような、毒気が抜かれたような、恥ずかしいような、なんだか色々な気持ちで、とりあえず喉元のほくろが痒くなったので、掻きました。

 

私は図書館に駆け込んで、M.H.先生の本がないか探しました。この隣町の図書館は、町の住民ならば誰でもどんな本でも図書館に置く本をリクエストできるので、ニッチな本がたくさん置いてあるのです。私は隣町の住民ではないのでリクエストはできませんが、隣町に住む先達たちのリクエストによる豊富なボーイズラブ作品の蔵書のおかげでこの図書館で百冊はボーイズラブ小説を読んできたので、著名な彼女の著作も置いてあるだろうと思ったのです(こういうことを言うと、「図書館かよ」「本屋で買え」「印税で作家は生活しているんです。何も分かっていない」と非難轟轟になり、炎上するのでしょうか。息苦しい)。

 

 そしてやはりM.H.先生の本は、十年前に発行されたもの一冊ですが、ありました。

 

十年前、正確には十一年三か月と五日前の日付が記された奥付、これがデビュー作ではないことを示す「作者の既刊紹介」の頁、そういうものを見て、思わすはーっと息を吐きだしました。少なくとも十年間、色々なキャラクターを生み出してはそこに物語や心情や関係性、それらの変化、そういったものをプロとして考えて書き続けている、そして十年前にももちろんプロになるまでの道のりがあって……。

 

それは、作家なのだから当たり前と言えば当たり前なのですが、今まで彼女を薔薇色妄想の徒として同じ等身大の「人」であると認識していただけに、こみ上げるものがあったのでした。

 

社会科見学中の小学生みたいな情緒で私はその本をためつすがめつしました。本は、可愛らしいカラーイラストが表紙を飾り、開くと、カラーの口絵が一枚、モノクロの挿絵が四枚入っていて、少し日焼けした頁の重なった上の部分には「隣町図書館蔵書」の物々しいハンコが押されていました。ハンコを撫でながら、この本は確かに公営の図書館の一員なのだとしみじみ思いました。そしてこの本は、隣町図書館だけではなく、国会図書館にも収められているのでしょう。うっとりしました。商業・法人として設立登記された、いわゆるちゃんとした出版社から著作が発行されることの素敵な点は、その本が国立国会図書館に収められることにあると思うのです。

 

国立国会図書館

 

日本中の漫画や本や雑誌を半永久的に管理しようとしている(少なくとも私はそう認識している)その機関が私は大好きなのです。だって、国立国会図書館に行けば読みたいものがたいていなんでも読めるんですから。そして、そこに本を収められ、未来にわたって人の世に読み継がれることを保証されるということは、まるでノアの方舟への搭乗を許されたかのように、私は思ってしまうのです。無論、同人誌も、発行主が七冊か八冊同じものを持って行き、手続きすれば国会図書館に収めてもらうことができるのは知っています。しかし、頼み込んで方舟に乗せてもらうのと、方舟に招待されるのとでは、大違いではありませんか。私は、mという人がM.H.先生として方舟に乗るお話を作っているのだと思うと、素敵だなと思うのです。

 

そういうことがあって、私の精神状態はわずかに改善されました。

 

子供のようで恥ずかしいのですが、夢ができたのです。それは、インターネットの海や古紙回収のトラックに消えていく二次創作の薔薇色妄想に血道を上げるのではなく、自分も国立国会図書館という方舟に招かれるような本を出してもらえる、そういう創作者になりたいという夢です。

 

分かっています。これは、「二十年間引きこもっていた四十二歳の息子がやっと漫画家になりたいって夢を言い出したんです。だから私、漫画専門学校の学費を喜んで出します」というような、アハハ……まあ好きに頑張ってよ、という乾いた笑いが漏れるような類のお話です。それでも、まあ、何もないより多少は「まとも」というものに近づいたのではないのでしょうか。

 

そういえば、大学四年生の時は、国立国会図書館における郵便物仕分けの職に就きたいと思っていました。授業のために古い文献を調べる必要があった国文学科生の私は、大学時代、江戸時代の文献などが載ったデジタルアーカイブに大層お世話になり、髪をワックスで固めた爽やかな美男子、一つ年上のロングヘアーの美しい彼女がいるけれど、ショートボブの茶髪を持つ背が低くて胸のサイズはFカップ、そんな後輩女子にも手を出しているような男、そういうサークルの先輩ではなく、国会図書館の旧館と新館の間にそびえ立つ青や黄のタイルがはめ込まれた大きな柱をうっとりと見上げる日々を送っていました。 私は国立国会図書館の食堂で五目ラーメンを食べ、貸出や複写カウンターに立つ女性スタッフの九割がロングスカートの下に黒いスパッツを履き、髪をシュシュで留めた、愛想のかけらもない女であることを調べ上げました。

 

宗教に傾倒していた両親からも、その仕事は利益主義が薄いから受けて良いとの御達しがあり、私は国会図書館の郵便物仕分け係の採用特設ページを授業中延々と眺め続け、郵便物仕分け歴三年のK.O.さんが、お尻に黄色のラインが入った黒色のカッターナイフで郵便物を開ける写真や、朝八時半から夕方五時半まで郵便物を仕分けている時の心境を紹介する文章を網膜に焼き付け、実務に備えてばっちりシミュレーションを重ねていました。しかし、郵便物仕分けの仕事に就くためには、東大の入試問題並みに難しい英語や物理や数学の試験に合格しなければならなかったため、数学が苦手な私はあっさり落ちてしまいました。

 

試験に落ちてしまったのは正直ショックでしたが、一方で、正六角形が立方体の側面を点Aから順に転がった時の軌跡を表す図が描ける、すぐれた頭脳を持った人たちが、朝から晩毎日郵便物を仕分け続け、いつしか定年を迎える様子を思い浮かべるとなんだか面白くて、ちょっと笑ってしまいました。

 

目を開けると、車窓から見える景色が変わっていました。先ほど乗っていたのは、乗車率二百パーセントの混み合った通勤列車で、私は朝、池袋駅に向かうそれの中で憂鬱な気持ちで揺られていたのですが、今私が乗っているのは新木場駅に向かう東京メトロ有楽町線普通列車です。窓の外には青葉が見えました。ガラクタだらけになった私の心には、水彩絵の具のうすいうすいレモン色と、クレヨンのピンクと、チョークの粉の空色が靄がかかったように淡く覆い被さっておりました。

 

私は今日、人形町小網神社というところに行く心算で、お参りが終わったら、その足で新宿に出、ハプニングバーというところに行こうかと思っています。一応、それには理由があります。

 

私は、非実在の角山さんという人に対しての恋情と妄想を振り払うために神社とハプニングバーに行くのです。

 

角山さんを頭に住まわせる前は、自らの性の爛れを悔やみ、また、縁もあって、わりとまともな恋愛をしていました。

 

半年前の秋、私は合コンで知り合った一つ年下の服屋の店員とデートを重ねていました。服屋の店員はやたらおしゃれなモコモコした上着をつっかけ、私よりよほどちゃんと髪をセットしてドタキャンもせず毎回デートの見本のようなきちんとしたデートを演出してくれました。彼は以前レンタル彼氏をやっていたようで、それも頷けたのですけど、あまりに完璧すぎてなんだか落ち着きませんでした。服屋の店員はホワイトデーにディナークルージングの船の甲板で告白してくれたので、一応段取りのようなものに則った方がいいのかなと思いオーケーをしましたが、彼はさして私が好きというわけでもなく、また私も彼のことはさして好きではなく、むしろ自慢話に嫌気がさすことも多かったので、時間とお金をかけたままごとをしているような気分でした。結局私は、ちんけな自慢話をいつも紡いでいる高い声と、身長百五十五センチの私とどっこいの背と、カミソリ負けして青いヒゲの剃り跡と血がうっすら滲んだ、毛の処理に失敗した女の恥丘みたいな顎を持つその男に粘膜接触を許すのが嫌で、付き合って一ヶ月で振りました。彼は、片手でやっていた作業ゲームの中でマリオがブロックから落ちたのを見るような感じで「あっそう、分かったよ、しょうがないね」とだけ言いました。虚しくなって、恋愛はもういいやと思っているところ、ひょんなことから大学時代の同級生と再会し、意気投合して、私はほとんど初めて、彼に対してまともな恋心を抱いたりもしたのですが、彼は結局ブラック企業の大阪支社に飛ばされ、連絡が途絶えたので、なにもかも疲れてしまって、しばらくは資格試験の勉強をしたりヒップホップにはまったり、そういう、側から見れば有意義といえば有意義な生活を送っていたのでした。

 

ところが、やはり私の頭はどこかおかしいようなのです。

 

それは二週間前のことでした。私は突然恋に落ちました。角山さんという男の人でした。

角山さんというのは、実在しない人です。ですが、気がついたら角山さんは、私の心に存在していました。私は角山さんのプロフィールについて一切構想を練った記憶がないのに、気がつくと角山さんの略歴を知っていました。

 

角山さんは、私と同い年で、私よりぴったり十日遅い生まれでした。クリスマスイブです。角山さんは、本当は落語家を目指していたのだけれど、なぜかミュージカル俳優になった人でした。春の新人お披露目公演での角山さんの演技はちょっぴり稚拙だったのですが、歌やダンスは売れっ子俳優に混ざっても遜色ないくらい恐ろしく上手く、また肝が据わっていて、微塵も緊張を見せない人でした。角山さんは少し角張った大きな顔をしていて、お世辞にもイケメンではないんですけど、ぱっちりした目や天然パーマのふわふわした髪に愛嬌があります。角山さんは、今、劇団の定期公演で王子様の役をこなしています。私は、自分の勝ち取った役のキャラクターを大事にして熱意を持って練習に励み、ベテランの先輩俳優たちから可愛がられる角山さんの人柄、実は星の砂や道端で摘んできたハルジオンを気に入っていて、アパートの窓際に飾っている、そういうところに、恋してしまいました。そして、同時に、彼が私という地味で平凡な事務員には手が届かないスターであることに絶望していました。けれどそもそも角山さんは実在していないので、あれ、おかしいな、よく分からないのですけれど、とにかく、妄想の中ですら私の恋は叶わないようです。

 

そういうわけで、ややこしいですが、私は妄想の中で妄想しました。角山さんがいるという妄想の中で、さらに、角山さんへの恋が成就する妄想をしたのです。容れ子状、と言えば良いのでしょうか。 

 

私は、自分が角山さんの出る芝居の脚本を書き、角山さんにその脚本を気に入ってもらって、それがきっかけでお付き合いを始め、休日には彼の実家の近くのお好み焼き屋で関西弁の彼にお好み焼きを格子状に切ってもらい、十二月は私の誕生日と彼の誕生日とクリスマスとで計三回ケーキを食べる、そんな妄想をしました。

 

ですがさすがに叶いもしない妄想で幸せになれるほどパーにはなれていないようで、毎日、実在しない角山さんのことを考える不毛さや、妄想の中ですら手の届かないことになっているネガテイブ思考、そういったものが辛くて仕方なく、また、さすがに妄想の中で妄想を続けるのにはかなりの精神力を要するようで、仕事は最近輪をかけてミスだらけですし、さすがにこれは人間としてまずい、と危機感を強めた結果、厄除で有名な小網神社に神頼みをしに行くことにしたのです。あと、ハプニングバーは、私が最近角山さんの二重妄想に意識を食われているのは生身の男と会っていないからかもしれないと思い、行くことにしました。基本的に、素の私は男と話すのが得意ではないのですが、セクシーキャバクラ等での勤務を通じて生み出した源氏名ちひろ」の女は男を転がすのが上手いので、「ちひろ」を装える場所に行こうと思ったのでした。

 

そんなことを考えている間、私の意識のもう半分は、付けっ放しのテレビのように角山さんの妄想を垂れ流しています。

角山さんは、ハプニングバーのカウンターで鏡月緑茶割りを飲みながら、手っ取り早く性欲を満たす相手を品定めしています。そんな中、角山さんのことを知らない振りして、私はカウンターの隣に座ります。商売女のちひろとして、すきものの処女みたいにポヤポヤした空気を出して、人恋しくて思い切って来てみたんですけど、ちょっと緊張しますね、お兄さんはよく来るんですか。そういう話をします。角山さんは、私を品定めし、他に一人で来た二十代前半のケバケバしくない女がいないことも鑑み、私で欲を満たそうとします。私としては、そのまま抱かれてしまいたい気持ちなのですが、そうしてしまったら角山さんの中で私という女が、鼻をかみたい時、机の上の箱からつまみ上げたティッシュの一枚のような存在になってしまうので、酔ったふりして期待を持たせた後、笑って席を立ち、「次会えたらね」と言って、おおよその男がそうであるように、肩をややいからせ、欲で目をぱちぱちさせている角山さんにキスします。そうして私は、角山さんの逃した魚になり、角山さんの中で多少美化されます。

 

しかし、しかしこれは、いかにマシに負けるか、という話でしかありません。私は角山さんに二度と出会わないでしょうし、そういう時、やっぱりプライドなんて捨てて思い出に抱かれておけば良かったと悔やむでしょう。万一会えたとしても、一度でも寝たり、素面で話したりしたら、特殊な空間でのイメージが崩れ、「こんなもんか」とがっかりされるのがオチです。私は、「こんなもんか」という顔をしてタバコを吸う男の隣で、カップラーメンの食べかすみたいに寝っ転がりながら、どんな表情をすればいいのでしょうか。泣きながら、チェーン店のざわめき懐かしく、ミスタードーナツに入ってタンメンを啜れば良いのでしょうか。

 

分かりません。何も分かりません。そもそも何もかも、私の妄想なのです、たぶん。

 

今日、私は初めてハプニングバーに行くのですが、心配な点が二つあります。

 

一つ目は、私の大陰唇の右側・後方にある良性の乳頭が性病と間違われないやしないかということです。

 

それができたのは、二ヶ月ほど前のことでした。私はそれをゴールデンウィーク、片思いの相手がブラック企業の大阪支社に飛ばされ、連絡が途絶えたショックで自棄になり、池袋北口でナンパしてきた男に一万円と引き換えに性器を舐めさせた時もらった性病だと信じて疑わず、日々そのナンパ男と、自棄になってしまった自分自身に憤りを感じていました。だいたいあの男は、異様に舐めるのが下手で、それどころか、舐められると傷口にうっかり石鹸が入ってしまった時のように沁みて痛く、舌に劇薬でも仕込んでいるのかと思うくらい苦痛でした。私は一万円もらったし、と思いしばらく我慢して舐められていましたが、さすがにこの男にこれ以上触られるのが恐ろしくなってしまい、愛想笑いで誤魔化して行為を切り上げたのでした。できものができているのに気づいたのはその半月ほど後で、初めはにきびだと思い市販の軟膏を塗っていたのですが、治らないし、だいいち、にきびというものは体の内側にできるものなのだろうかと首をひねった結果、ああ、これは性病なのだ、私はあの、マイホームパパのような青い縦じまのシャツを着た、目の下に隈のある、ふわふわした頭のあの男に性病を感染されたのだと愕然として、泣きました。それはそうだ、池袋北口で、一万円あげるから舐めさせてくださいと、Free Hugsの看板を掲げるみたいに立っている男に着いて行く女は、貞操が緩いだろうし、なんなら金に困ってインターネットカフェで不衛生な体の売り方をしているかもしれないし、とにかく、性病を持っていてなんの不思議もないのだ。私は、この前殺人事件のあったラブホテルの一室で、男から一万円を受け取った時、お札を包んでいるのがお年玉用のポチ袋だということに気づき、少しほっこりしてしまった自分をタイムマシンに乗って殴りに行きたい気持ちでした。

 

私は、仕事で失敗するのも、人と交流する気が起きないのも、全てこの大陰唇の右側・後方にある尖圭コンジローマのせいだと思い、私は性病持ちの女なのだとうじうじ暮らしていました。産婦人科に行こうという気持ちはないわけではなかったのですが、以前産婦人科で、男性医師に銀色の長い鉗子を突っ込まれた際、「痛い痛い痛い」と身をよじったっころ、「君本当に処女じゃないの? 見栄張っちゃってない?」という侮蔑的な言葉を浴びせかけられたことがあったので、尻込みしていたのです。しかし、放ったらかしにしておくのもやはり良くないだろうと思い、薬で治るなら治りたいと、重い腰を上げて先日産婦人科に行って来たのです。

しかしながら、私の性器を診た医師は、「もしかしてこれが性病だと思ってます?」と拍子抜けしたような声を上げました。そして、触診後、くだらない患者としてあからさまに順番を後回しにされ、三十分ほど待って、ようやく医師は診察室に戻って来ました。

 

「あなたの性器にある、あの小さなものは、性病ではありません」

医学絵本のような大判の本を広げ、ピンク色の膣が描かれたカラーのイラストを見せながら医師は言いました。

「にきびでもありません。良性の乳頭です。脂肪の塊です。出す薬はありません。放っておいて問題ありません」

 

私は窓口で千円払いました。

 

縦縞シャツの男を恨んでしまったことに対し心の中で詫びながら、私は帰路につきました。帰りに何か食べたはずで、私は大抵何かの用事で帰りが遅くなり、外食をした際は何を食べたか詳細に覚えているのですが、その時何を食べたかはよく覚えていません。そのくらいの虚脱感があったということなのでしょうか。

 

性病でなくて、良かったと言えば良かったのだけれど、性病でもにきびでもないなら、これを治す術がないということで、果たしてそれは「良かった」のでしょうか? 私は、この先ずっと、性病に間違われそうなできものをくっつけて生きなければいけないのでしょうか。

世の中、そういうことが多い気がします。私だって、お前は頭がおかしい、病気だから、良くしてあげようねと、注射か何かしてもらって、気立てが良く手先の器用な娘として、創作なんていう不毛な地獄の蓋を開けることなく善良な小市民的に生きたいのです。それなのに、みんな、注射をしてくれないし、安楽死もさせてくれず、生きたくても生きることができなかった地球の裏側の子供を引き合いに出して、あなたには素晴らしい個性がある、その個性できっと作家や漫画家になれる、あなたらしく生きなさいと言うばかりじゃないですか。命の価値はみな平等? 馬鹿馬鹿しい。薔薇色妄想の世界にいると、命の価値は平等なんて言葉がナンセンスだということを痛いくらい実感させられます。

 

私が死んだら、そりゃあ、私の両親は嘆き悲しむでしょうし、私の数少ない友人も悲しんでくれるでしょうけど、だいたいそれくらいで打ち止めです。世界も、日本も、埼玉県川越市も、薔薇色妄想界隈も、変わらず順調に回って行きます。けれど、もしmが死んだら、ボーイズラブ界隈や薔薇色妄想界隈の何十万という人が嘆き悲しみ、mというクリエイターがいなくなったことによる、将来における素晴らしい物語の損失に、ぽっかり穴が空いたような気持ちになるでしょう。mですらそうなのですから、それが人気ミュージシャンや人気ユーチューバーになったら、悲しみの渦はもっとすごいことになります。

 

ブラック・ジャックか何かで描かれている命の平等さというのは所詮貧富の差があっても命はみな平等だということで、そりゃそうだ、金持ちが死んだとしても金まで召されるわけじゃないんだから、貧富で命の差を語ることができないのは分かり切っている。金の力で健やかな生活を送る人間がいる一方、貧しくてろくに薬を買えない人間もいるというのは、弱肉強食の動物時代から引きずった我々の本質的問題であって、課題ではあるが問題ではないのだ。問題というのは、いくら美しいことを言う口があろうが、人間社会には確かに、多くの人にとって代えがきく人間もいればそうでない人間もいるということなのです。それこそ、命の価値、人間の価値の違いの問題なのです。

 

そういうのは、病気とか、そういう風に断じられることなく、みんな違ってみんないいだのなんだのと、いいように言われているのですが、だったら私は、素敵な乳頭をくっつけた個性派としてストリップに出るべきなのでしょうか。そういう気持ちがありました。

 

二つ目は、ハプニングバーにいるのが、ろくでもないつまらない人間ばかりだったらどうしようかということです。

面白みなく、性欲ばかり旺盛だけれど、自分で思っているよりセックスが好きではなく、三分クッキングのようにつまらない真似をした後賢者タイムに背中を丸める男には、あまり会いたくありません。剃り込みをして、爪が毒々しく、鼻や舌にピアスをした、ヘビ柄のスカートを履いた女の人、そんな人に、私は会いたいのです。そして、そういう人に抱きしめられたいというのは、ミチコさんや、父や、母や、mさんや、角山さんに愛されるよりもきっと、ずっとずっと、現実的な夢だと、ちゃんと分かっているのです。

 

 

目を閉じると、水の音がしました。

 

電車なのに、水音だなんて、ペットボトルか何かから飲み物がこぼれているのだろうか。それとも私、失禁でもしているのかしら。

いや、違う、コポコポ……というこの音は、水が、水のない場所に流れ出る音ではない。深い水の揺らぐ音だ。深海のような響きだ。

電車の中なのに、なんで耳元からこんな風に深い深い水の音が聞こえるんだろう。ああ、確か、以前インターネットで、地下鉄の車両では時折、冷暖房装置から流れる水の音がパイプ越しに聞こえることがあると見たことがある。いや、でも、もしかしたらこの足のつかない水の中でたゆたっているときに耳にするようなこの音は、もしかしたら、蝶の魚が聞いている音かもしれない。

 

私が角山さんの妄想を抱きしめているように、蝶の魚は、私という平凡な事務員の妄想を抱きしめて、深い海の中で眠っているのだ。妄想、もしくは夢は、私が思っているよりたくさんの容れ子として、連なっているのだ。それもまた、妄想なのだけれど、あるいはそれは、本当なのかもしれない。そう思うのです。

 

だって、一見ひとつづきになっているかのように見えるこの世界にも、異なる次元、異なる世界というものが同居しているのですから。私は先ほど、例のmさんのブログを読んでいました。mさんは自身の創作活動について何やらとても気落ちしているようでした。私からすれば、皆から命の価値を認められ、生を嘱望され、好きな創作で飯を食っており、通勤列車に乗る必要のないmさんに、なんの悩みの種があろうか、とつい思ってしまいたくなるような感じでした。しかし一方で私も、第一志望の国立大学に落ちて滑り止めの私立大学に受かった際、受験ノイローゼと学費の不安で毎日自殺を考えていたにもかかわらず、その私立大学が第一志望だったのに落ちたクラスメイトに八つ当たりされた時は全くもって「は」としか言いようがない、ピンと来ない、妙な感覚だったので、たぶんmさんに通勤列車が云々という私の心情をぶちまけたところで、同じように、お互い空気掴み取り大会に出場したような不毛な状況に陥るのは分かっているのです。

 

人は、同じ土俵に立っている、もしくは立っていた人間の気持ちじゃないと、絶対に分かりっこないのだ。そして逆に言うと、分からない人が周りにたくさんいるということは、私たちはみなそれぞれ、違う土俵にいるのだ。違う世界の上に乗っかっているのだ。

 

こういう風に、世界は少しずつ異なった形をして箱の中に収まっており、その箱の中にはさらに小さな箱がある。外には大きな箱がある。私は、蝶の魚の夢を見ます。蝶の魚は深い深い海の中で、太陽の寿命と同じくらい長い命を持て余しながら平凡な事務員の夢を見ている。

 

この文章をずぶの素人が今まさに書いて送ってきた文章だと思っているあなたは、蝶の魚なんて、自分用語を作ってロマンチストを気取りやがって、駄作、駄目駄目、はい却下、と思います。しかし、この文章が、当時はずぶの素人だったけれど、今や押しも押されもせぬ高名な芥川賞作家の先生の人生を変えた処女作であるとするならば、あなたは、蝶の魚かあ、羊男みたいなものだろうな、と納得します。そして、この文章が、国立国会図書館デジタルアーカイブに収録された三百年前の文献なのだとしたら、あなたは、三百年前には蝶の魚ってものがいたのかなあと、昔の生き物図鑑をさらに国立国会図書館で探す羽目になります。

 

水が流れるように、時間は移り行き、世界は変わり、分断され、もしくは行き止まり、水は腐って行く。それだけは、分かるのです。けれど他のことはなんにも分からないから、私は目を瞑って、夢を見ます。夢を見る私は、所詮……。

 

 

ガタタタタタタと轟音がして、車両が大きく揺れました。

 

電車が交差しました。背中合わせの状態で、いつのまにか、自分という事務員を知ってほしい、ただそう一言叫べばいいのに、そうは言わず、あれこれとおしゃべりを続けていた女は死にました。狐に食い殺されたのでした。

 

彼女は、自分が夢野めぐみのパーソナリティであると信じて疑っておりませんでしたが、ただの妄念でしかなかったようでした。今、私は夢野めぐみとしてそのように考え、彼女の遺した、紙とインキの無駄遣いでしかなく、遠い国の子供達の住処や、美しい青い星の血管や、貴重な石油、そして、下読みという仕事をされている方々の、何より貴重なお時間を無駄に食い散らかした、くだらない欲望の残骸をかき集めてため息を吐いています。私は、狐の用意した代わりの人格なのか、それとも妄念の祓われた、本来の夢野めぐみなのか、もしくは夢野めぐみを食い殺した狐が、新たに夢野めぐみとして夢を見ているのか、分かりません。ただ、きっと私も、いずれどこかで消滅するのだろうという予感は、確かにあります。

 

所詮。

 

その後、夢野めぐみが何を続けようとしていたのか、たぶん瑣末で陳腐な文句なのだと思います。あれは幼稚な女でした。私は、角山さんに関する妄念から逃れ、せいせいした気持ちでおりましたが、同時に少しだけ、寂しい気持ちになりました。夢野めぐみは、どうしようもない女で、彼女が媚びたところで、彼女の妄言はゴミ箱に突っ込まれシュレッダーで切り刻まれるだろうことは明らかでした。所詮その程度としか言いようがありません。所詮その程度。彼女はそう言いたかったのでしょうか。

 

けれど、それでも、彼女は「創作者」でした。私よりよっぽど、創作者だったのです。水溜まりのぬかるみで七転八倒する彼女がいなくなってしまったことは、私一人にとっての損失でしたが、しかし私という人物は、彼女がいなくならない限り現れることのなかった人物ですので、彼女は要するに、生きている限り誰からも望まれない人間だったのです。

 

可哀想に。

アンモニア臭のする水色の液体に浸かった彼女の遺体を瓶に詰めて、じっと見つめます。可哀想なあなた。そんなあなたが、死ぬほど好きだ。彼女のかつての薔薇色創作の一節をオマージュしてそう言います。そう言えば、あの作品は、ぱっとしない彼女にしては珍しく脚光を浴びたのでした。六人が、お義理ではなく「泣いた」と感想を言ってくれたのでした。それでも、ついぞmは彼女の方を見ることがなかったから、彼女は少しがっかりしていましたっけ。私からすれば、書いたものを「泣いた」と言われるだけで、結構なことであるような気がするのに。

 

ああ、そうです。彼女の命を嘱望するであろう人間は六人、いたのかもしれません。私は、その六人は、誰に対してもホイホイ「泣いた」と言い、明日には彼女のことなんて忘れて別の創作物をつまんでいる、そういう人だと信じて疑っていませんでした。歌舞伎揚げのお煎餅が好きな人が、たまたまある潰れかけのお菓子屋で歌舞伎揚げを買って、その後そのお菓子屋が潰れたとしても、気にも留めない。歌舞伎揚げを買える店なんて星の数ほどあるのだから。そういうことだと思っていました。

けれど、もしかしたら泣いた六人は、あるいはその内の一人二人は、どこの歌舞伎揚げでも良いのではなく、彼女の店の鄙びた雰囲気や、継ぎ足し方式で作る秘伝の醤油だれを塗った歌舞伎揚げだからこそ、良いのだと思ってくれていたかもしれない。それを思うと、店の建っていた更地を任された私は、右往左往してしまうのですが、彼女はもういないわけだし、彼女は生きている限り苦しかったのだろうから、やはり死んで良かったのだろうと思います。

 

瓶は、ずしりと、大きくなります。紫色のもこもこした花を纏わせた食虫植物のような彼女のばらばらの体の真ん中には、薄茶色の目が浮かんでいて、右斜め上をじっと見つめています。もしかすると、じきに私は胸が裂けて死に、その体に、再び彼女は収まって、息を吹き返す算段なのかもしれません。それは、私としては少し嫌なので、厄除のお守りを握りしめて、神頼みでもしておこうかと思います。それでも、やはり夢野めぐみの脳みそは妄想に侵されやすいようで、私の頭の中には早速相馬さんという人の妄想が息衝き始めました。

 

相馬さんは既婚者の男性です。相馬さんはストレスが蓄積されると、奥さんに甘えるのではなく、奥さんを甘やかしたがるという珍しい性癖の持ち主で、それだけを奥さんが言うと惚気のように捉えられてしまうのですが、実は違います。相馬さんは、まず、帰宅すると、奥さんに「何もする必要がないからね」と告げ、リビングから動くのを禁じてその間に四、五品の西洋料理を作ります。料理は、器に完璧に盛り付けられ、上にハーブの葉や何かの小さな実があしらわれている、まるで高級レストランのような代物で、こんな素敵な料理を作ってくれるのはありがたいと分かっているのに、あまりにも整い過ぎたそれに奥さんは恐縮してしまいます。相馬さんは奥さんが奥さん自身の手で食事を摂ることを許しません。小さな子供のような紙ナプキンを付けさせ、相馬さんがフォークに巻き取ったトマトパスタを、馬鹿みたいに口を開けて迎え入れさせます。フォークの銀の柄に時折映る、ナプキンを撒かれた首がいかにも窮屈そうな、豚のお頭のような自分の赤ら顔をなるべく見ないようにしながら味がよく分からない食事を続けていると、胃がキリキリと痛むのでした。

 

口に運ばれる食事を奥さんがうまく食べられず、ナプキンに零すと、相馬さんは優しく笑って「大丈夫だよ」と笑います。奥さんは、謝る必要なんてないのに、「ごめんなさい」と言って贅肉のついた首を縮めます。ごめんなさいなんて私が言う筋合いないのに。そう分かっているけれど、つい、謝ってしまう。自分の惨めさに、奥さんは少し泣きました。

 

そもそも、ずんぐりとして、姿勢が悪く、お世辞にも美人とは言えず、根暗で不器用で気の利かない奥さんと、長いまつげのけぶるお人形のような目をした、愛らしく端正な容姿を持ち、またちょっとした言動にもきらめくような知性を感じさせる相馬さんとはあまりに不釣り合いで、そしてそのことは、周囲で陰口を叩かれずとも、奥さん自身がよく分かっていることでした。なぜこの人は私と結婚したのだろう。奥さんがそう思わない日はありません。

 

ストレスが溜まっているときの相馬さんは、奥さんが一人でトイレに行くことすら許しません。甘やかしというより介護に近い真似をされた日、奥さんは眠りながら、私はいつかこの人に寝ている間に脚の腱を切られるんじゃないかと考えます。もしくは毒でも飲まされて廃人にさせられんじゃないかしら。がたがたと震えます。

 

そもそも、彼はどうして私なんかを結婚相手に選んだんだろう。交際を申し込まれたときは、彼の外見やステータスに舞い上がって深く考えていなかったけれど、よくよく考えればおかしい気がする。彼は、私に嫌なことを言ったり、見下したような空気を発したことは一度もない。家事でもなんでも率先して何でもやってくれる。完璧にやってくれる。悪いことなんてない、こんな彼と結婚できて幸せだと思うべきだ。それなのに、なんなのだろう、この胸がざわざわするような感覚は。気持ち悪い。彼は、私というみじめったらしい女のみじめったらしさ、無能さを近くで眺めながら、自分の優秀さ、恵まれ度合いを再確認して悦に入っているのではないか? 彼にとっての私の存在意義は、そういう、自分よりはるか下でうごめく可哀想なものとして、人の心を昏く慰めるということなのだろうか。嫌だ。嫌だ。どう思われようが関係ないわ、イケメンな旦那捕まえられたし家事も楽できるからラッキー、そう思っていられる人間でいたかった。こんな、畜舎の豚みたいな気持ちで生きたくなかった。世間から見た幸福とやらに怖気を感じたくはなかった。

 

その奥さんも、やはり夢野めぐみの断片という気がします。私は、相馬さんの作り物めいた目を思うと、それが私の妄想であると分かっているにもかかわらず、寒気がして、いやな気持ちになるのです。幸福とは、なんなのでしょうか。

とりあえず今、私は幸せです。誰かに価値を見いだされたとか、いいことがあったとか、そういうわけではありません。幸福感をもたらす脳内の分泌物が増加しているだけです。

 

要するに、他人からどう思われていようが、自分という世界の観測者が幸せならそれで幸せなのであって、そこに何の努力も必要なく、せいぜい幸せホルモンの分泌を促すセロトニン錠でも飲んでいれば十分なのです。

 

そして、幸せな気分になった私が機嫌良く振る舞えば、私に関わった人は、機嫌の悪い人を相手にするより良い気分になりますから、一人の幸せは他者に伝播する、そういう清々しい気持ちで私は池袋行きの東武東上線通勤電車に揺られています。そういう気持ちが理屈を超越した何かに通じたのか、先ほど、普段は混んでいてめったに座れない座席に腰を下ろすこともできました。青葉の風に頬を撫でられたときのようないい気分です。

 

くそくらえ。そう叫ぶ彼女の亡骸の一部が入った瓶を、お骨を抱くようにしてそっと抱き寄せます。寂しい。そういう気持ちもないわけではないけれど、私がこの私なら、ミチコさんにも厄除の効果が伝播して、元気になってくれるかもしれない。そう思うと、寂寥は秋の風に香るキンモクセイのように消え去ってしまいました。

 

葡萄酒とハンバーグとパンを、地下の古い洋食屋で口にしたい。そんな秋の日の気持ちでうつらうつら船を漕ぐ。私は夢を見ています。何人もの私が布団をまたいで小さな部屋を横切り、どこかに消えていく、そんな世界を胸の片隅で垣間見ます。こうしている間にも、さまざまな「私」が生まれては消えていく。急に襲ってきた喉の痛みが、ハプニングバーでしゃぶった男の無味無臭の作り物みたいな身体の一部から感染された咽頭クラミジアなのか風邪の初期症状なのか悩みながらコンソメ味の漢方薬を口にする私、強い酒を飲ませてノンケの女の子を酔わせ、手を出すのだと恐れられていた大学時代の女の先輩の書いたレズビアン小説(先輩のプロデビュー作です)が、インターネット上で脚光を浴びているのを知り、先輩の黒い服や黒い日傘を懐かしむ私、整形しすぎて顔の形が道ばたの小石みたいになり、大きな黒い目がそこからはみ出してしまった、サトウちゃんという女の子(サトウは、「佐藤」ではなく「砂糖」の意)とまた歌舞伎町のビルの地下で会いたいなと思っている私。みんな、そう、思うばかりで、どこに行くこともできない。そうして、このまま、朽ちていく。

 

車窓を眺めていると、田んぼが見えました。走るトラックがおもちゃのように小さく見える田園風景を眺めていると、ふいに窓ガラスに角山さんに似た誰かの双眸が映ったので、はっと息を呑みました。けれど、私は彼女と違って角山さんに恋してはいないので、なんだか侘しい気持ちで、米作りの農家を営んでいた母方の実家が荒廃していったさまなどを思い出しておりました。

 

新しく生まれたこの私は、どこかに行って何かをすることができるのだろうか。自分がまだ生の入り口に立ったままだと思うと、しんどい、お腹が痛い、頭が痛い。みんな、一度生まれてしまったら死ぬのは一瞬で、彼女がそうであったように命なんていうのはあっけないものなのに、生きている間はまるでこの生が永遠に続くものだと思っている。こんなことを言うと、妙な人権団体に言葉尻だけつまみ上げて追随されそうなので、小石は全部蹴散らして、パン屑でも撒いておきましょう。

 

ああ、私は平凡な事務員です。

そして今まで申し上げたことは、全て嘘っぱちです。

 

 

 

電車が着きました。

半蔵門線渋谷駅で、私は降りました。

 

【SF短編小説】環(わ)

【概要】少女二人の終末紀行。



【本文】


そうして人類は永遠の眠りについた。

そんな結末は許さない。

永遠なんてあり得ない。

夜の次には朝が来る


煙草の焦げ跡の散るアスファルトの上に紙飛行機が落ちていた。古いような、古く見せかけた新しいもののような、セピア色のその紙飛行機を広げると、中にはピンク色の文字が散りばめられていた。ピンク色からはむっと鼻につく女のにおいがした。





「クソ陳腐じゃん」

広げてしわくちゃになった紙飛行機の、ピンク色のポエムを踏みつけながらヒバリが言った。

「夜の次には朝が来る、だってさ」

私は足元に散らばる瓦礫の破片を蹴飛ばした。やけに生々しい満月の光がゴーストタウンと化した明かりの灯らない繁華街跡を青白く濡らしている。人間どもよ、ネオンの群れはもはや絶滅した、ようやく我の時代が舞い戻ってきたのだ。雲の合間でぬらぬら揺れながら私たちにそんな言葉を投げかけているかのような月が忌まわしくて、煮えたぎる気持ちのまま天に唾を吐き出す。当然のごとく唾は私の頬に落ちてくる。

「ギャッ」

「ちょ、小夜あんたバカすぎじゃん」

「は、バカじゃないから。実験だから。重力が今もなお地球において通常どおり働いているか、の調査なのであります! やべっ私天才じゃね?」

「は?」

私より少し前を歩きながら「重力がなくなるわけないじゃん」と口にしたヒバリの横顔が無垢な美しさに満ちていたから、私はつかの間泣きそうになった。

ねえヒバリ、なんでそんな無邪気なこと平気で言えるわけ?重力がなくなったっておかしくないじゃん。

「宇宙のブラックホールを作り出すなんとか光線とかさ、なんとか力の影響で、あの太陽すらどっかに消えちゃったんだよ」


追いすがるように「ねえ」と言った私のことを振り返ってヒバリが睨みを利かせる。チッという重い舌打ちがピンク色の口紅をしっかりと塗った唇から放たれた。

「バッカじゃないの。辛気臭い顔見てるとぶん殴りたくなる。いちいち言うなよ、そういうことをさあ」

「ヒバリこそいちいちイラつかないでくれる、なに、生理?」

「あ?」

「あー」

「あはは」

ヒバリは弾けるように笑うと後ろに向かってスキップし、私の隣並ぶと再び歩き出した。

闇の中、ギャルブランドの黒い帽子を被り直してヒバリが鼻歌を歌う。遮るべき日差しはもはやないのに、なんて言うのはナンセンスだ。

ワン、ツー、ステップ。おしゃれのためだけ、実用性なんていらない、女の子二人、おそろいで塗った真珠色のネイルをかざし合って軽やかに進むんだ。非常食や水やキャンプ用品を詰め込んだごついリュックの重みなんて忘れて、どこまでも、どこまでも。


赤い支柱に、今までありがとう、くたばれ、輪廻、さまざまな言葉が殴り書きされている歌舞伎町一番街のアーチをくぐり抜けたとき、ヒバリがふいに私の手を固く握りしめて急に立ち止まった。

「なあに」

ヒバリの背中に手を伸ばし、努めて優しく訊いてあげる。あげる、なんて思考、私って嫌な女だ。だけどそんな風に思わないとやってられないんだ。やってられないんだよ、ヒバリ。


「ねえ小夜。大輝は無事だよね。花邑セクト駅に行ったら大輝に会えるんだよね」

「うん、ヒバリ、きっと会えるよ」

私は自分でも驚くほど滑らかな動作でリュックサックの持ち手を肩から外した。岩のようなリュックサックをどすんと地面に下ろすと、ドラマみたいにくずおれたヒバリに覆い被さって、黒いところのない金髪の頭を抱きしめる。長い髪を梳き、無防備な耳を露出させる。ヒバリの耳は肉厚で、温かくて、それが少し気持ち悪い。


立ち止まってじっとしていると、歌舞伎町にわだかまる獣じみた若者たちの気配を生々しく感じる。地球が通常運転を行っていた頃、世界がもうじき終わるなんて誰も夢にも思っていなかったときに、酒に酔っては騒ぎまわっていた歌舞伎町の住民たちは、今は不思議と静かだ。みな疲れきってしまったのかもしれない。私たちが歌舞伎町を訪れる前は眩暈がするような喧噪や悲喜劇がこの街を埋め尽くしていたのかもしれない。今はただ、帰る場所を持たない人々が無言のままストローを刺した酒の缶片手にうずくまり、毒々しい色に染めた髪を浸食する真っ黒なつむじを月の光の下、晒しているだけだけれど。


「終わりが近づくと、人間って黙るんだね」

私に体重を預けたままヒバリが言う。

「きっとみんな、眠たいんだよ」

ヒバリのこめかみに唇を寄せて、私は答える。

だって、太陽が消えて、ずーっと夜が続いてるんだもん。


宇宙における原子と分子と物理科学的なんちゃらエネルギーと惑星の因果律が崩壊する影響でこの地球は三ヶ月後に滅びます。二ヶ月と三週間前、そんな内容の公営全世界放送が街々のモニターに突如映し出された。人々は混乱し、いつか映画で見たようなありきたりな騒動や悲劇が世界中に巻き起こった。ライフラインは首都の最低限のものに限定され、店は善人による有志のそれ以外閉ざされ、一般市民は倫理観を捨て去った連中による身の毛もよだつような犯罪に巻き込まれないようねずみのように息を潜めながら身を寄せ合って生活していた。

故郷の茨城県から京都の大学に進学して寮生活を送っていた私は地球滅亡の混乱によって焼失した寮から逃れ、同じような境遇の学生たちと共に大学のキャンパスで生活を営み始めていた。それからしばらく後、因果律の崩壊により太陽が姿を消して終わらない夜が始まったのと同時に電話とインターネットが繋がらなくなった。大学に留まっていた学生たちの多くは連絡の取れなくなった故郷の家族と会うために大学を去っていったけれど、地球最後の時を家族と過ごそうとは思えなかった私は、学友たちを見送って大学内に留まり続けた。

家族が嫌いなわけではない。茨城県で農業を営む両親は私に親として適切な愛情を注いでくれたし、双子の兄、大輝との仲も良好だった。しかし、私には想像がついてしまっていたのだ。もし私が家族と再会したら、家族は私が「嫁にも行けず、子供も産めず」死ぬことを心底嘆き悲しむだろう。彼らはそういう人種なのだ。そこそこの企業に腰掛けで勤めた後、安定した収入のある男と結婚し、子供をつくり、老後の面倒をみさせる、そういう合理的なプロトタイプが誰にとっても絶対に幸福であると信じて疑わない「善人」。私は嫌だった、自身の幸せを勝手に規定されて不幸者のレッテルを貼られることも、人間という動物の生存上適した人生設計を幸福と思えない自分のことも。


私は時折大学内に住む他の人々と交流しつつ、それ以外の時間はもっぱら大学の図書館で本に埋もれながら日々を過ごした。私は非常に恵まれていた。図書館棟の地下階には非常用の備蓄や水、電気が止まったときのために用意された自家発電システム付きの宿泊施設があった。校内放送用のスピーカーからは、インターネットの代わりに用いられ始めた、鉱石ラジオの仕組みを応用した音声放送によるニュース番組が毎日二回流れてきたので、社会情勢から孤立せずに済んだ。


ある朝、完全無人自動運転化が既になされていた都心の一部の路線を除く全ての交通公共機関が政府の命令により運行を停止したというニュースが図書館に流れた。ボランティアの運転手が乗客を道連れに無理心中を図る事件が多発したからだった。

「人々は乗用車による移動を試みています。しかし首都圏の乗用車は、先日多発した暴走車轢き逃げ事件に抗議する団体によってその多くが破壊されており……

「続いて本日の生存連絡電報です。タナカケイタ、アール三・五・七、『有楽町ホールにてナナミを待つ』……

同姓同名者と間違えることのないよう生年月日と共に告げられる氏名とメッセージを聞き流しながら図書館のソファで読みかけの文庫本を開いたとき、ふいに鉄の扉が開いたので、私は驚いて顔を上げた。

人がいるとは思わなかった、とでも言うように口をぽかりと開けて立っていたのがヒバリだった。


ヒバリは金色の長髪にふんわりとしたシルエットのワンピース、ハイヒールといういでたちだった。多くの人々が服装に構う気力などとうになくなり適当な格好をしている中、気合の入ったファッションに身を包んでいるのが妙におかしくて可愛かった。

重い扉の閉まるバタンという音の裏で生存者連絡はなおも続いていた。ハシモトタカヒロ、エイチ十一・六・十二、ミユ生きてたら生存者連絡をくれ、俺は米原駅におる。ゴトウミサキ、エイチ七・三・六、東京ホテル竜宮ツリー駅前にて待つ。

「ヒツジヤマダイキ、アール四・四・二十、『小夜、無事か、俺は花邑セクト駅にいる』」

はっとスピーカーを見上げた。兄だ、と思った。

「大輝……?」

涙混じりの声にぎょっと振り返った私はそのとき彼女が誰であるか気がついたのだ。



ヒバリとまともに言葉を交わしたことはなかったが、私は幼い頃から彼女のことを快く思っていなかった。ヒバリは夏樹と私との関係に水を差す存在だったからだ。

隣の家に住む幼なじみの夏樹は、初夏の浜辺の柔らかな日差しを思わせる優しい垂れ目が印象的な爽やかな少年だった。小学三年生の夏まで私たちはほとんど毎日夏樹の家の庭で共に遊んでいた。夏樹の家の広い庭ではいつも、丁寧に手入れされた美しい草花が出迎えてくれた。咲き誇る花々の中、花冠を被る私はお姫様で、夏樹は王子様だった。それは夢みたいなひとときだった。しかし私はヒバリの登場によって時折夢から覚まされた。 


ヒバリはごっこ遊びが佳境に入る頃音もなく現れる。海野の瞳の端に映るヒバリが、私も花冠を被ってお姫様になりたい、というじっとりとした視線を私に向けるのを私はことごとく無視した。だってあの子はいらない子なんだもんと心の中で言い訳をしながら。ほら、夏樹のママは夏樹のことは好いているけどあの子のことは嫌ってる。私この前見たんだから、夏樹のママがはぎれのレースと花冠で一人遊びするあの子のお尻をぶってたの。あの子は家の中で隠れてなきゃいけないの。「うちにヒバリなんていない、そうでしょ」って夏樹のママはヒバリに金切り声で叫んでたんだから。けれど、そういうことを思えば思うほど自己嫌悪に苛まれるから、あの子が顔を覗かせるたび私は適当な理由をつけて遊びを切り上げ、自分の家に帰ったのだった。

そしてある日私は見てしまったのだ。隣の家で、洗濯に出してから無くしたと思っていた私の花柄のワンピースを着たヒバリが一人、花冠を作って遊んでいるところを。


ヒバリは私のワンピースを盗んだのだ。ショックだった。怒りと生理的不快感が込み上げてきた。けれど私はヒバリに声をかけることなく塀の下に姿を隠した。あの子はいない子じゃないんだ、という思いが鈍器のように私の頭を殴りつけた。ワンピース姿で花遊びをするヒバリは本当に幸せそうで、咲き誇る花のように美しかった。そしてその日以来、私は夏樹の家に遊びに行くのをやめたのだ。


しかし、図書館で再会した日、私は不思議と穏やかな気持ちでヒバリと会話することができていた。地球滅亡前という非日常の気配がヒバリの絵に描いたような金髪と妙に調和が取れていたからかもしれない。


ヒバリは夏樹の死を私に告げた。

私は備蓄のかびくさいコーヒーを沸かしながら「うん」と言った。

「驚かないの?」

「分からない」

私の体が呟いた。私の心は抜け殻の中みたいにぼんやりしてる。私は夏樹の死にショックを受けているのだろうか。よく分からない。全ての感覚が鈍い。眠りの淵にいるように。夏樹は永遠の眠りについたのだろうか。それとも悪夢から目覚めたのだろうか。

「小夜、大丈夫?」

「あ、ごめん」


それから、コーヒーの湯気を間に挟み、私とヒバリは互いにちょっとした近況報告を行った。

「ねえ、小夜、私大輝のことがずっと好きだったんだ。だけど母親にも嫌われてた私なんかがって思うと色々取り乱しちゃって、大輝から逃げるように京都の大学に進学した。世の中がこんな風になった後、優しい大輝は私にも連絡をくれたけど、うまく返事をすることができなかった。バカだよね、それからすぐ電話もネットも使えなくなって、大輝がどこにいるか分からなくなっちゃった」

そっか、と私は言った。

「だけど今日、大輝の居場所は分かった」

「うん、奇跡だと思ったよ」

「東京の花邑セクト駅に行くの? 列車は今日止まっちゃったけど」

「行くよ。歩いてく。何日かかっても行く」

「そのヒール靴で?」

私がそう訊くと、「好きで履いてるんだもん」とヒバリは笑った。

コーヒーごちそうさま、と言って彼女が立ち上がる。私は椅子に座ったまま突如どぎまぎと暴れ始めた心臓を押さえ込んでヒバリの後ろ姿を見上げた。ワンピースのファスナーの上、広く開いた背中の滑らかな肌色を見つめながらごくりと息を呑む。なあに、とヒバリが言った。レモン色の爪で長い髪をさらりとかき上げて振り返る彼女に、もう行くの、と分かりきったことを訊く。ヒバリは、行くよ、と答えてくすりと笑うと、少し考え込むような仕草を見せ、それから私をまっすぐ見つめ直した。

……小夜も一緒に行く?」

行く、と私は言った。

それから私たちはヒバリの持参した道具を使って爪の色をおそろいにし、京都を発った。




歌舞伎町を抜け、廃線となった西武新宿線を左手に新大久保の街を歩いた。流れる水のように光るオパール色のガラスをヒール靴の足で薄く踏んで「玉砂利」とヒバリが呟く。かつてフレッシュジュース店の看板だった大きな円状のガラスが春の氷のようにぱりぱりと割れる。

「なに? いきなり」

「んー、おしゃれの残骸みたいなガラスをぱりぱり砕く感覚が、玉砂利を踏んだときの感じに似てるなあって」

私は肩を揺すって「雅かよ」と笑ってみせた後、少しだけ息を吸い込み、夜の街らしい密やかさを含んだ声で「京都の玉砂利のこと?」と囁いてあげた。

「修学旅行で行ったっていう……

「そうそう」ヒバリがうっとりと目を伏せて瞬きする。「平安神宮の敷地内で、真っ白な玉砂利に足を取られてこけちゃった私を同じ班の大輝が抱き留めてくれたの。もちろん大輝は単なる親切心で助けてくれたんだろうけど、私は大輝の体温にどきどきしちゃってさ」

「大輝も罪な男だよ」

この旅の間ヒバリに幾度となく聞かされた話に相槌を打つ。可哀想なヒバリ、ほんの一瞬だけ与えられた友愛の感覚をよすがにしてハイヒールによる靴擦れの痛みに耐えている。いや、頬を赤らめて何度もちっぽけな思い出話一つを繰り返すヒバリは自ら進んで履いたハイヒールの痛みを感傷の中に抱き込みながら、自分自身に酔っているのかもしれない。そうだとすればヒバリは幸福だ。ささやかなぬくもりの記憶一つを可能性の糸にして大輝と結ばれる未来を展望している。



事前情報のとおり、ベースキャンプは高田馬場駅に設らえられていた。

街が壊滅状態になり、人々が内紛の火に焼け出される中、簡単な宿泊設備や生存連絡電報の発信装置が用意され、カウンセリングや炊き出しのサービスも提供しているベースキャンプが全国各地に作られていた。私たちはベースキャンプに泊まりながら京都から東京へ旅してきたのだ。

昼も夜も闇に包まれた世界で人々がたどり着きやすくなるよう、全国のベースキャンプには電灯を重ねた光の塔が作られ、煌々とした光を放ち続けていた。暗闇を照らすそれを人々は命の塔と呼び、その場所で喪った大切な存在や自身の行く末に想いを馳せていた。

そして私にとっても、命の塔は特別なものだった。


「小夜」

ベースキャンプで眠りに落ちると、優しく肩を揺すられる。この手を引いて、寝床から命の塔へと夜毎私を誘い出すのは、夏樹の幽霊なのだった。あるいは、私は、そういう夢を見ているのだ。

「同情で出てくんなよ」

「ごめんごめん」

夏樹は困ったように笑い、命の塔の灯りを見上げた。「夜明けみたいだね」

「あは」

私は笑ってみせながら、夏樹の横顔をぼんやり眺めた。癖のついた柔らかな黒髪、優しい目、静かな声を出す薄い唇。

偽物の光だよ、と心の中で夏樹に言う。夜明けの光とはほど遠い、ただの電灯だ。あんただって同じ、所詮は偽物なのだ。私の気持ちに呼応して現れる、夏樹のかたちをした夢幻。けれど私はそれを幽霊と呼んでいたい。今目の前にいるものが確かに夏樹の魂を持っているのだと思い込んでいたい。

「夏樹」

私は幽霊の夏樹の手を掴もうとする。けれど夏樹は幽霊だから、するりと私の手から逃れて「ごめんね」と苦しげに笑う。

「あんたって最低の自己満野郎だよ」

「知ってる」

そっと夏樹が囁く。私は泣く。目を覆っているうちに夏樹は姿を消してしまう。そして私の胸にはいくばくかの喜びとその何倍もの虚無感が残される。


再び目を覚ましたとき、ベースキャンプは暗いなりに昼めいた雰囲気で満ちていて、ヒバリは既にばっちりとメイクを施し終えていた。

「おはよー小夜、起きるの遅いんですけど、てか、ねえ、ベースキャンプに寄るために遠回りしちゃったけどさ、今日の夜には花邑セクト駅に着きそうだね」

「そっか……

良かったね、とヒバリの手を取る。

「花邑セクト駅に向かう、って生存連絡電報も打っておいたし、きっと会えるよ、ヒバリ」

「うん、ありがとう、小夜……

ユウコは乾いた手のひらで私の手を握り締めながら、ありがとう小夜、と何度も繰り返した。


私たちは支度をし、ベースキャンプを出発した。


目指す先は東京駅だ。東京駅から花邑セクト駅までは自動運転の列車に乗って行けばいい。花邑セクト駅にはベースキャンプがあり、ランドマークの観覧車が命の塔として用いられているらしい。


私は、私と小夜が海沿いにある未来都市風の花邑セクト駅で降り、観覧車のネオンを背に大輝と再会するところを想像した。それは今日私たちの経験する出来事のはずなのに、頭の中のイメージは遠い日の幻のように霞がかっていた。


東京駅に着いたとき、音声放送が午後五時を告げた。東京駅は巨大なベースキャンプだった。駅舎そのものが命の塔となり、明るい光を放っている。私たちと同様東京駅にたどり着いたばかりらしい子供が灯りを見上げて「もうクリスマスが来たの」とはしゃぐ声が電飾の淡い影に響いていた。その子供は、母親と思しき女性の丸まった背中に遮られて私たちの視界から姿を消した。

「行こうか」

ヒバリが私の手を取った。私たちは手を繋いだまま東京駅前広場の人だかりを抜け、改札口へと向かった。


「なんか閑散としてるね、意外。もっと人でごった返してるかと思った」

私の言葉に、「まあUA線は山手線より二回りも小さいおもちゃみたいな環状線だからね。今さらそんなもんに乗って移動したい人間なんかそうそういないでしょ」とヒバリが返す。

「鉄オタを除いて?」

「そうだね、ウケる」

「はは」

開きっぱなしになっている改札を通り、ホームに降りる。

私たちはベンチに並んで腰かけると、そのまま黙って互いの体に体重を預け合った。列車が一本、また一本と来ては、少しの人間を乗せて流れていく。確かにおもちゃみたいだ、と私は思った。何もかもがおもちゃみたいだ。ヒバリの背中にある、私の知っているほくろ、私のうなじにあるらしい、ヒバリの知っているほくろ、おそろいのネイル、共に食べた炊き出しのスープの焦げ、ヒバリのお気に入りのピンクのリップ。


やがて私たちは手を繋いだまま立ち上がって列車に乗り、細長い座席に隣り合って座った。無機質な車内アナウンスと共に扉が閉まり、白紙のつり革広告を載せた車体が本物の夜に漕ぎ出していく。人の減った東京の空虚なネオンが窓越しに瞬いては遠ざかっていく。


「次は花邑セクト駅、花邑セクト駅」


観覧車のまばゆい光を映した窓に、ヒバリの姿もまた映っている。ねえヒバリ、あんたは今何を考えているんだろう。通路を挟んで向かい側に広がる窓の淡い像からは表情までは読み取れない。けれどすぐ隣を覗き込む勇気はない。

花邑セクト駅に到着しました、という車内アナウンスが流れ、列車が止まる。列車は二分間停車いたします。私たちは座席から立ち上がった。ヒバリがゆっくりとホームに降りる様子を私は列車に乗ったまま見守っていた。

「小夜」

ヒバリが振り返る。私はヒバリに軽く手を振ってみせる。

「大輝によろしく」

微笑んで囁く。ヒバリの顔がくしゃりと歪み、車窓の灯りを映した瞳が潤む。

「なんでよお」

こうすればいいの、とヒバリは呟き、金髪の根元を引っ張った。

ウィッグネットごとずるりとウィッグが落ちる。


黒髪をくしゃくしゃと手櫛で整えながら、彼女は自身の表情を切り替えていく。

「夏樹雄太郎」

「その名前で呼ばないでってちっちゃいときから言ってるじゃん!」

子供に還ってしまったかのように地団駄を踏んだ幼馴染に、私は「その名前がさ」と笑ってみせた。

「それがダメなら、もう戻れないでしょ」

……小夜」

「夜、『夏樹』としておしゃべりされるのは虚しかった。男の子の夏樹に対する私の気持ちを悟られているようで恥ずかしかった」

ヒバリは、鼻を啜りながら、うん、と言った。

「ごめんね。自己満だよね。自分で、夏樹雄太郎の外面を殺して、ずっとなりたかった女の子のヒバリに生まれ変わろうとしたくせに、やっぱり嫌われるのが怖くてさ」

ねえ小夜、俺は、私は、本当に小夜のことが好きなんだよ。小夜との友情を失いたくないんだ、友情は恋に負けちゃうの?やだよ、一緒に行こうよ、寂しいよ。

彼女が私に手を伸ばす。私は「行けないよ」と呟いた。

「行けないんだよ」

「なんで」 


なんで?よく分からない。私はただ、花邑セクト駅で彼女と共に降りることができないのだ。うまく説明できないけれど、それが全てなのだ。


——小さいとき、あんたが私のワンピースを盗んだから。

一瞬そう言おうとして、やめた。


「夏樹のことが好きだったよ」

呟いた言葉は閉まるドアの狭間に吸い込まれて消えていった。

無人のホームに立ちすくむヒバリは涙で化粧の溶けたひどい顔で私のことを見送っていた。私はドアのガラスに手をつきながら、ヒバリの姿が視界から遠ざかって消失してしまうまで、じっとその様子を眺めていた。さよなら大輝、さよなら夏樹、さよならヒバリ、さよなら世界。

誰もいない車両の中、糸が切れた人形のように縦長の座席の端に腰を下ろす。卵を温めるような格好でリュックサックを抱え、垢じみたにおいのする取手の部分に頭を預ける。


真珠色の爪を噛みながら、列車に揺られて環状線をぐるぐると巡り続けた。地球が滅ぶまであと一週間もある。だけどヒバリ、この列車があと何周もしないうちに世界は終わるかもしれないよ。そしてまた始まるんだ。光より速く、何周も何周も、世界は巡り続けて、いつか夜の環を外れるかもしれない。


は?そんなわけないでしょ。

あるかもしれないじゃん。宇宙のブラックホールを作り出すなんとか光線とかさ、なんとか力の影響で、あの太陽すらどっかに消えちゃったんだよ。

——バッカじゃないの。

低く掠れたヒバリの声を思い出す。真珠色のネイルが歯に溶けて剥がれた。脳裏に蘇るのは、王子様の夏樹ではなく、似合わない少女趣味のワンピースを着たヒバリの姿だ。花冠を被って喜ぶヒバリ。悪態をつきながらぼろぼろになった足をハイヒールで包み、気高く進むヒバリ。ずるい女の顔で私に恋バナを繰り広げるヒバリ。

相反する感情が互いのしっぽを追い合っているような気分だった。終わりたいような始めたいような、愛しいような憎いような、眠りたいような目醒めたいような。

「そうして……

私はクッション地の座席を踏みつけて背伸びをし、白紙の吊り革広告を剥ぎ取ると、ダウンジャケットのポケットを探った。

別れのどさくさでユウコから盗んだピンクのリップを手のひらで転がす。紙飛行機ってどうやって折るんだっけ。


そうして人類は永遠の眠りについた。……”